14.蒼天のオリオン

交差寸前


いざ家の前に立つとやはり幾らかの緊張は否めなく、喉の辺りに少しだけ息苦しさを感じた。
そして扉の先が未来へ続く道なのか、それとも断崖か……そんな思いが頭を過る。それでも意を決すると、
「ごめんください。………」
扉に向かって声を掛けたが、中から返事は無く人が出て来る気配も感じられなかった。
この小さな家で緒方の声が聞こえない筈は無い。もしかしたら留守なのか……等と思いながら、
はたして人が住んでいるのかさえ疑わしい。そんなふうにも思え……今度は少しだけ声を張り上げ、
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか?」
もう一度声をかけた後で、鍵が掛かっているのかどうかも判らない引き戸を、ノックしようと手を上げた……その時。
「誰だい? 何か用かね」 家の横手から声がした。

まさか外に人が居るとは思ってもいなかった緒方は、その声に一瞬驚きはしたが、考えてみれば家人が家の外に居たとしても何ら不思議な事でも無かった。
だから、上げたままになっている手を下ろすと、その声の主に顔を向けた。
其処には老婆と言うには少しばかり早いと思える年齢の女性が、まだ泥の付いたままの葱と大根を手に不審そうな顔で緒方を見つめていた。
石田の父親の話では、滅多に人が尋ねて来ることも無い隠遁暮らしをしている老夫婦……そんなふうに言っていたが、
それが本当なら、其処に居る老婦人は里中源蔵の妻と言う事になる。それなら、余計な警戒をされないように……そう思い。
「すみません、少しお尋ねしたいのですが、こちらは里中源三さんのお宅ですか?」
出来るだけ穏やかな声で、実直そうな顔で尋ねた。
だがその老婦人は其処に立ち止まったまま緒方をじっと見つめ、やはり警戒するような声で聞いた。

「源三は家の爺さんだけど……あんたさんは誰かね」
「突然押しかけて申し訳ありません。私は石田汐堡さんの知人で緒方という者ですが、実は人を探しています。
それで、その探している人とよく似た方が、こちらの源三さんとご一緒だったと聞きましたもので、
不躾とは思いましたが、出来ればお話を伺いたいと思い……こうして訪ねて参りました」
緒方が言うと、老婦人は石田の父親の名前が出た事で少しだけ安心したのか、ゆっくりと緒方の側まで近づくと、
入り口の側に置いてあった桶に野菜を入れた。そして、緒方を見上げるように向き合うと、

「汐堡さんの知り合いかい。わざわざこんな所まで人探しに来なさるとは、えらい難儀な事ですの。
そんでも、おらの爺さんはあんたさんの役には立てんと思いますがの」
いともあっさりと言い切った。それが余りにも決まっている事のように聞こえて。
「と……言いますと?」
緒方が思わず問い返すと、老婦人は確定ともいえる答えを返してよこした。
「爺さんが一緒に連れとったのは、家の倅ですからの」
「倅? 息子さんだと言われるのですか?」
「そうですだ。倅は長い間遠くに行っておりましたがの、最近になってひょっこり帰って来おったのですよ。
そんであんたさんは、倅とは何時ごろの知り合いですかの。わしは倅から、緒方さんって名前は聞いたことも無いもんでの」

老婦人の口からよどみなく出る言葉に、緒方は、そんなはずはない。確か息子は死んだと……。
石田の父親が言った言葉を確かめるように頭の中でなぞる。だが老婦人の表情や口ぶりからは、嘘をついているとは思えず。
やはり噂は、噂でしかなかったのか……そんな脱力感の中に一縷の望み繋ぎ、もう一度尋ねた。
「あの、息子さんのお名前は……名前を聞けば人違いかどうか分かりますから」
それなのに、その細い糸さえ断ち切るかのように、老婦人は自分の息子の名前をはっきりと告げた。
「倅の名前ですかい。洋介、里中洋介。爺さんがつけてくれなさった名ですがの。どうかね、あんたさんの探しとる人かね」
駄目押しのような問いかけに体中の力が抜け落ちていき、答える声も失意に満ちて聞こえた。

「いえ……どうやら人違いのようでした。お忙しいところ、お手間をとらせ申し訳ありませんでした」
その様子が余りにも気落ちして見えたのか、老婦人は心なしか気の毒そうな顔で緒方を見つめていたが、
その視線を緒方から外すと水平線へと向け……呟くように言った。
「そうかい……別に気にせんでええよ。けんど、何でおらの倅があんたさんの探しとる人だと思ったんかね」
確かに、自分の息子が誰かと間違われた……そう思うと、理由を知りたいと思うのはもっともな事で、
だから緒方は、通常なら有り得ないだろうだろう、その特徴を口にした。

「目が……私の探している人は、この青い空と同じ色の目をしているんです。源三さんの連れの方も青い目をしていた。
そう聞いたものですから、もしかしたらと思い、訪ねて来ました」
「青い目……かい。そりゃ、気の毒な事をしたの。実は洋介の目は作り物ですじゃ。
時々青いガラスば入れとるでの、それば知らんお人は目が青いと思うらしいが、外すとわしらと同じ黒い目ばしとる。
あんたさんが聞いた話も、そういう事でなかったのかの……見当違いばさせて、すまなかったの」
老婦人の視線は波打ち際に移動していたが、其処から動くことも無く言葉だけが緒方に向けられ。
緒方もそれに誘われるように、余り広くない入り江に目を向けた。

「カラーコンタクトでしたか。それなら、間違えたのも無理が無いですね。
それにしても、とても静かで綺麗な海ですね。入り江というのは、こんなにも穏やかなものだったんですね」
「そうじゃの。よほどの嵐でもこんかぎり、此処はいつも静かに凪いでおるからの」
打ち寄せる波もない、まるで湖のように静かな海が光を集めた原のように、目の前できらきらと輝く。
そしてそれが、光の中で戯れる蓮見の笑顔と重なり、無意識に言葉になって出た。
「できたら……私の大切な人も、此処の海で眠っていて欲しい……そう思います」
そして老婦人が一瞬息を呑むと、少しの間沈黙し……それから放った声はなぜかとても辛そうに聞こえた。
「海で……だれぞ、亡くしたんかい」
「え? あ、あぁ……そうです。私が余りにも愚かで情けないから、海が私の一番大切な人を浚っていってしまいました。
私がどれほど願っても、待っても……もう、帰ってきません」

言いながら、なぜこんな事を老婦人に言ってしまったのか。なぜ突然涙が溢れてくるのか、緒方にも解らなかった。
悲しいとか、悔しいとか、そんなものとは違う涙が、穏やかに静かに……ただ、溢れ出る。
そしてなぜか、この一瞬老婦人も自分と同じ気持ちでいるのでは……緒方はそんな気がした。
「………。倅に会っていくかい」
「ありがとう御座います。でも、もう会う必要はありません。ふと立ち寄っただけの通りすがり……そう思って忘れて下さい。
つまらない話にお付き合い頂いて有難うございました。それでは失礼します」
緒方はそう言うと、深々と老婦人に頭を下げた。そして入り江に背を向け、来た道を戻ろうとした緒方の背中に、
老婦人の必死とも思えるような声が追いかけてきた。
「帰りは岬を回って行くといいだ。海がの……此処とは別の顔を見せるでよ」

だが緒方はその声に振り向いただけで、言葉を返すことも無くもう一度老婦人に頭を下げ……背を向けた。
今更期待していた訳ではない。結果は半ば予想していた事ではないか……いくら自分に言い聞かせても、
大切な何かを失った喪失感は確かにあって、前に進む緒方の足取りは重かった。
あの凪いだ海を見た時、思わず蓮見の死を口にした。
それは、自分だけは絶対に認めない……と決めていた結末ではあったが、
それでも緒方は、自分が新しい一歩を踏み出せそうな気がした。

聖羅……生きていたら、いつか必ず会えるよな。
課長……いつか必ず、課長の側に行きます。それまで待っていて下さい。
矛盾する二つの思いが、不思議と一つに重なり。ふと、老婦人の言った言葉を思った。
別の顔の海か。此処まで来たのだから、それを見比べてから帰るのも悪くないだろう……と。


入り江を囲むように小さく突き出した岬にそって進むと、視野が急に開け、いくつもの波間を連ねた広大な海が現れた。
まるで海中から生えているような巨岩が入り組み、侵入を阻むように立ちふさがる。
なのに、それを打ち破ろうとするかのように海は絶え間なく押し寄せ、無残に砕けては飛沫となって辺りに降り注いだ。
その様は豪快に荒々しくも、生きている海の息吹のようなものさえ感じさせ……あの入り江とは別の顔をしている。
確かにそう思った。あそこは、穏やかさと安堵に満ちて……優しい。一つでありながら、様々な顔を見せる海。
それはさながら、人間とよく酷似しているような気もした。

片側に海を臨み片側に更なる崖を担いだ道を、足もとを気にしながら……それでものんびり下っていくと。
そこで道は終わり、あとは緩やかな砂浜へと続いていた。
長い砂浜は、なだらかな傾面の海岸線を背に、遥か先に広大な海原を臨む。
時に荒々しく、時に緩やかなに永遠の営みを繰り返しながら、やがて地の形さえも変える。
毎週末埠頭から眺めた水平線とは別のそれを、緒方は暫しの間感慨に満ちた思いで眺めていた。
そして、その時になって初めて、自分が車を止めてきた場所まで戻るには、どっちに行けば良いのか判らない事に気付いた。

(どうすんだよ……婆さんに道を聞いてくるんだったな)
口の中で小さくぼやくと、視線を、眺めていた海原から砂浜に移した。
其処では投網でもしているのか、見るからにがっしりとした漁師ふうの男と、細いからだをした若者ふうの男が、
一生懸命に綱を手繰り寄せていた。「倅に会って行くかい」 老婦人の言葉を思い出し、
もしかしたら婆さんの旦那と息子? なぜかそんな気がして、緒方は小さな苦笑を浮かべた。
それに、道を聞かなくては車にも戻れない……緒方はそう思い、履いていた靴と靴下を脱ぐとズボンの裾をたくし上げた。

靴下をポケットに押し込み、靴を手にぶら下げ、それから砂浜に飛び降りると、まだそれほど焼け付いてはいない砂が、
緒方の重さを受けて僅かに沈んだ。ほんのりとした温かさを足の裏に感じながら、出来るだけ乾いた所を……そう思うのだが、
乾いた砂というものはどうにも前に進みにくく、前へ脚を運ぶ毎に、足の下から砂が逃げる。
それに、二人までの距離は目に見えているより実際にはかなり遠いらしく、なかなかその距離は縮まる気配が無かった。
雲ひとつ無い空に太陽は真上に近づき……二人の引く網も最後に近付いているように見えた。
作業が終わったら帰ってしまう。その前に道を……そう思いながら懸命に足を運ぶ緒方の額には、うっすらと汗が滲んでいた。



波打ち際では、網の中で沢山の魚が銀色の腹を見せピチピチと跳ねる。
巻き上げ機で水際までひいてはあるが、更にそれを手繰り寄せるのには結構な力がいった。それを必死に引きながら。
「ずいぶん沢山かかっていましたね。これじゃ重いはずですよ」
蓮見が少しだけ日焼けの兆しを見せた顔を綻ばせ、源三に向かって嬉しそうな声をかけた。
「あぁ、天気も良いし水も温んできているからな。わしが魚を外す側から網を手繰って巻けるか?」
言いながら、屈んだ姿勢のまま網にかかった魚を外しては、側に置いた大きな樽に放る源三の顔は、
幾らか心配そうでもあり、何処となく嬉しそうでもあり。さながら、息子と一緒に働く父親の顔のようでもあった。
「大丈夫です、任せて下さい。もう直ぐ昼ですからね、律さんが首を長くして待っています。
さっさと終わらせて帰りましょう」
そして屈託の無い蓮見の笑顔は、日の光を浴び眩しいほど輝いていた。


あの日、意識を取り戻した蓮見の目に映ったのは、黒い梁を剥き出した天井と、古い板壁の窓から見える青い空だった。
だが、なぜ……とか、どうして……という疑問は浮かばず、代わりに蓮見の口から出たのは。
「そら……」
その微かな声に、側で縫い物をしていた女性が驚いたように目を丸くし、それから安心したように顔を綻ばせた。
そして、蓮見の顔を覗き込むと、
「あれ、やっと気ぃばついたかね」
そう言いながら目を細めると、顔に刻まれた皺が更に深くなった。だが自分の現状を理解できる状態ではなかった蓮見は、
女性の言葉にポカンとした表情で、ただ女性の顔を見つめているだけだった。そんな蓮見に、
「何日も眠ったままでよ、このまま目ば覚まさんかったら……と、えらく心配しおったが……良かった。こんでもう、心配いらんの」
女性は言い。言葉は酷く聞き取りにくかったが、それでも自分の事を心配してくれたのだという事は理解できた。

そして初めて、見たことも無い周りの様子に疑問が浮かんだ。
「あの……此処は……」
口を開くと意外と柔らかな、しかし聞き覚えのない声に少しの不安が過ぎる。女性は蓮見の心中を察したのか、さっきより優しい声で。
「此処はおらの家だ……何も心配はいらん。兄さんはの、おらの爺さんが連れ帰って来なすった。
そんな訳でおらには何も判らんが、くわしい話は、爺さんが帰ってきてからすればええ」
そう言うと、生きてきた年月を語るように幾分染みの浮き出た手を、蓮見の額にそっと載せた。
その手は見た目よりずっと柔らかく、温かで、女性の人となりが伝わってくるような手だった。

その温もりに安心しながらも、胸の辺りにざわつくような不安も残り。その不安を問いに変える。
「私は、どうしたのですか……」
「どうもせんよ。ちょっとだけ熱があっての。けど、もう熱も下がったし怪我もしとらんから、直に起き上がれるようになる。
大丈夫だ、心配せんでもええ。それよか兄さん、腹ば減っておらんか? 飯も食わんで眠っとったからの、
体力が落ちとるで、今粥ば作ってやるからの、それば食ったらもう一眠りしなせ。そのうち爺さんも、帰ってきなさるだろう」
言いながら女性は 「よっこらせ」 と掛け声をかけて立ち上がり、座敷の直ぐ先にある土間に下りていった。
顔を巡らして周りを見回しても見覚えの無い状況に変わりなく、頭の中には靄がかかって何も考えられなかった。
ただ、微かな波音と風の鳴る音で、此処が海辺に近い所だという事は想像がついた。
酷く不安な思いと、ゆったりとした安心感。それらが入り混じって、再び目を閉じると、
落ちていく意識の中で満天の空に輝く星が見えた。


「兄さん……兄さん」
遠くから呼ばれるような感覚で再び目を開くと、心配そうな顔で蓮見を覗き込んでいた女性が、
目を開けた事で安心したのか、ホッとしたように粥の入った鍋と茶碗を乗せた盆を蓮見の枕元に置いた。そして、
「粥が出来たで。どうだね、食ってみるかい」
言われたが、正直何かを口に入れたいとは思わなかった。それでも、折角の心遣い……そう思うと否とも言えず、
それでは……と、起き上がろうとしたが、なぜか身体に力が入らなかった。すると女性が、蓮見の肩を抑えるようにして手を添え、
「起きんでもええて。おらが食わしてやる。一口でも食えば、少しは元気になるからよ。ほら、口ば開けて」
そう言うと、スプーンに載せた粥を蓮見の口元に運んだ。

重湯のような粥が、空だった胃にゆっくりと流れ込んでいくのを感じて……自分の身体の中が空っぽだった事に気付いた。
そして女性の言った、何日も意識のない状態で世話になっていた……その意味を理解した。
だが、一匙、二匙と、スプーンが何度か往復すると、それだけで胃が一杯になったような気がして、
「すみません……もう……」
申し訳なさそうに小さな声で言うと、意外にも女性は嬉しそうな顔で、
「そうかい、けど頑張って良く食ったの。無理ばせんと、少しずつゆっくり養生すりゃ、そのうち元気になるからの。
爺さんが帰って来なすったら、えらく驚くだろうよ。早よ、帰って来なさるとええの」
そう言いながら、本当に嬉しそうに何度も何度も頷いた。
そしてその言葉通り、帰ってきた老人は蓮見の顔を見るとやはり驚いた顔をし……その後嬉しそうに顔を綻ばせた。

その時になって初めて、蓮見は自分の事を思い出せない事に、やっと気付いた。
記憶の中の自分は、住所も、名前も……何もかもが、霞がかかったように頼りなく、はっきりとした形を成さない。
その霧をながしたような頭の中にあって、オリオンだけが鮮明に輝いているのが判った。
そんな蓮見に、老人は特に驚いた様子も見せず。自分たちの事を里中源蔵と妻の律だと……それだけ言った後。
「まぁ、そのうち思い出すだろうよ。別に急がんでも時間は逃げては行かんからな、ゆっくり養生したら良い」
妻の律と顔を見合わせ、何処となく楽しそうに頷いた。


それから数日が過ぎ、少しずつ体力が回復してくると、源三の言った事が本当だったと判った。
まるで体力の回復に併せるように記憶も戻り始め。自分の過去が人に語れるものでは無かった事に愕然とし、現実を思い知らされた。
そうか……僕は何処にも行くところが無い。僕には……もう誰もいない。
全てを思い出した蓮見にとっては、現在も、未来も、真っ暗な闇夜と同じで、其処に生きる意味も見出すことはできなかった。
それでも、食事をし、眠り……息をし続ける。そして、起き上がれるようになると、家の前で一日中海を眺めるだけ。
遥か先に広がる海原は金色の絨毯を敷き詰め、入り江では打ち消された波が緩やかに小石を洗う。
傾きかけた太陽は、凪いだ海と雲ひとつ無い空を茜色に染めあげ。それを見つめながら、なぜ自分が今も生きているのか不思議に思った。
あの時海は、確かに自分を呑み込んで懐に抱いた筈なのに……なぜ、死ぬ事も出来ず此処に居るのか……どう考えても解らなかった。

「兄さんよ、もう直ぐ晩飯が出来るで、いつまでもそんな処におらんで中に入りなせぇ。それに、爺さんも直帰って来なさる」
掘っ立て小屋のような家から、顔を覗かせた律が蓮見の背に声をかけた。
家から海辺に下りる段差に座り、入り江を眺めていた蓮見は、その声に振り返ると小さな笑みを浮かべた。
「はい……すみません」
「なんも、すまん事なんてないぞ。それより、病み上がりでいつまでもあんな処に座っとったら、身体に良くねぇ。
見なせぇ、冷えて身体も冷とうなっとる。風呂にでも入って、温まると良いだ」
律は蓮見の側まで寄ると、そう言って蓮見の肩をパタパタと叩いた。
「えぇ、でも……源三さんが帰られてから」
「何を言うとるね。爺さんは仕舞い湯と決まっとるで。遠慮なんかせんでもええ。
湯から出たら飯も出来とるに、さっさと入ってきなせぇ」
律の言葉は酷く乱暴そうに聞こえるが、その響きはとても暖かさに溢れて、蓮見はその言葉に促されるように立ち上がった。

家の外に付け足したような風呂場は源三の手作りなのか、洗い場はコンクリートむき出しの床に簀がしいてあるだけだったが、
浴槽だけは檜作りになっていた。そして、申し訳のように付いている蛇口からは水しか出なくて、勿論シャワーなどなかった。
律の話では、入江の上にはきちんとした家もあるらしいが、源三はどうしても此処から動こうとはせず、
以前は別々の家で暮らしていた時期もあったと言う。それでも何時からか此処が自分たちの本当の家になった。
「爺さんは頑固だからの」 律は笑いながら言ったが、おそらく律の方が折れたのだろう……蓮見はそんな気がしていた。
その洗い場で浴槽の湯を汲んで身体を流すと、たっぷりと張った浴槽に身体を沈める。
少し熱めの湯は、冷えた手足の先まで血を巡らせ、改めて自分が生きている事を実感する。
本当は死ぬはずだった。それなのに……こうして生きている。なぜ、どうして……明日は、明後日は……思いは廻り巡って、
その中で蓮見は、数日前源三に言われた言葉を思い出していた。

「あんたが、どんな暮らしをしてきたのかわしには判らん。だが、自分で命を絶とうとしたくらいだからな。
よほどの辛い事があったのだろう。だから、生きてさえいれば……なんて気休めを言うつもりは無い。
けどな、あんたは死ねなかった。それがあんたにとって、良かったのか悪かったのかは判らんが、
あんたは、まだ死んではならない……そういう事なんだろう。だから、とりあえず今は此処でのんびりして。
先の事を考えるのは、身体も気持ちも回復してから……それで良いんじゃないか」
源三に言われ、蓮見は改めて、自分を助け、濡れた衣服を脱がし、着替えさせたのはこの人だったのだ……と知った。
そして、あの日付けていたウルバーノのピアスとリング、それを源三に見られた事も。

後で自分の手で外しはしたが、蓮見の意識が戻った時ピアスとリングは身体に付いたままだった。
なぜあんなものを付けて出たのか……今になると、バカな事をしたと思うのだが、あの時は。
蓮見として死ぬなら、せめて兄の迷惑にならないように……そして兄なら、自分の遺体についているそれらを盾に、
ウルバーノとの取引を継続させるだろう……そう思った。だが、死ぬことも出来ず、剰えあんなものを見られてしまい。
おそらく、普通ではないと想像がついたはずなのに、源三は何も言わず、何も聞かず……知らぬふりをしてくれた。
その優しさが言葉に滲み出ていたような気がして、この人に救われて良かった……心からそう思った。
湯の温かさが、芯まで冷えた身体と、同時に心まで温め……それが源三と律の優しさや暖かさと重なり。
もう少し此処で……あの二人の側で生きてみたい……蓮見はそう思った。

そしてその後も暫くは海を眺めて過ごす日々が続いたが、源三も律も特に何を言うでも無く、あえて何かを聞く事もなかった。
蓮見の好きなようにさせておけば、そのうち自分の居た場所に帰るだろう…そんなふうに思っていたのかも知れないが、
蓮見には行く当ても無かったし、何より此処に、二人の側に居たい……そんな思いが日々強くなっていくのを感じていた。
だからと言って、身勝手な我が儘が通るとも思えず、ずるずると居候を決め込む訳にもいかず。
ぼんやりと海を眺めながら (今日こそは源三に……) そんな日が数日続いた後……思い切って自分の気持ちを伝えた。
記憶は完全に取り戻しているにも関わらず、今まで自分の過去は勿論、名前すら言おうとしなかった。
そしてこの期に及んでも自分の事を語ろうともせず、臆面も無く勝手な事を言い出した蓮見に、
源三は一瞬驚いたような顔をし、それから難しい顔をし……少しの間無言でいたが、
「名前もない……となると不便だな」 ただ一言、そう言った。

その時蓮見は心の底から願った。生まれ変わって此処で生きたい……と。そのせいか、思ってもいなかった言葉が口を吐いて飛び出した。
「以前の僕は死にました。此処に在るのは源三さんが拾った命です。ですから……新しい名前を付けて下さい」
それは宛も、死のうとした命を助けた責任はあなたにある……そう言っているようにも聞こえ。
そして源三も、それには口をへの字に結んだまま天井を睨んでいたが、
「そうか、そこまで言うなら……洋介にして良いか。わしの死んだ息子の名前は洋一といった。
だから、あんたには洋一の分も生きて欲しい。洋一が介してあんたを護ってくれるように、と願ったのだが……どうだね」
蓮見以上の突飛な答えで返し……蓮見は目を潤ませて 「はい……」 静かに頷いた。









蒼天のオリオン- Copyright © 2014/ 9/02/sanagi . All rights reserved.    web拍手 by FC2