11.蒼天のオリオン

覚悟の成分


休日と雖も必要があれば出勤しなくてはならないのがサラリーマン。
益してや営業となればそれは当たり前の事なのだろうが、緒方にはそれがひどく理不尽な事のように感じていた。
周りには仕事が出来る……言い換えれば成果を出せる営業マン。そう認識されていても、
緒方本人の中では、それは何の意味も持たない只の結果に過ぎなく、然程仕事が楽しいと思ったことも無かった。
それなのに最近では、ある程度の成果が目に見えてくると仕事が楽しく思え、自分の努力が認められた。
誰かの何かに役立っている。そんなふうにも思えたりして……休日出勤も以前ほど嫌ではなくなった。
そんな自分に苦笑いしながらも、緒方は自分が最近少し変わってきている……そんな気もしていた。

蓮見の事を完全にふっきれた訳では無かったが、少なくとも全てがどうでも良い……そういう気持ちは無く。
むしろ人との関わりや仕事の結果に小さな驚きや喜びを見出せるのが嬉しく思えたりした。
そして今日、石田の会社の人間と納品期日の打ち合わせが入っていた緒方は、昨夜電話でその事を石田に話した。
すると石田が、自分も残務整理で出勤する予定だったと言い。
それなら仕事が終わった後に飯でも……と、誘いをかけた緒方に、逆に石田が誘いの言葉を返した。

「明日から連休ですよね。たまには、少し足をのばしてみませんか? 実は僕の実家海の近くにあるんですよ。
だから明日の夜は僕の家に泊まって、明後日は気晴らしに海釣りでもしませんか?」
そして石田のその誘いは、休日にデートする相手もいない緒方にとって、とても魅力的な誘いに聞こえた。
「海釣りか……多分、ボウズだろうな。けど、連休といってもすることも無い俺としては有り難い誘いだが、
泊めてもらうとなると……家族とかは大丈夫なのか?」
「それは大丈夫です。家には親父しか居ませんから……その代り何の持成しもありませんよ」
そんな遣り取りをし、今日はこの後石田の車でT市まで直行する予定になっていた。
緒方の打ち合わせは思ったよりスムースに話が決まり、石田の残務整理も粗方済んだ頃。

諒ちゃん……。

緒方は、ふと誰かに呼ばれたような気がして 「聖羅? いや、この声は……課長?」 漠然とそんな事を考えていると、
緒方の様子を不審に思ったのか、石田が閉じていた書類から目を上げて緒方の顔を見つめた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや。今ちょっと……誰かに呼ばれたような気がしたんだが」
言いながら緒方は、何とはなしに辺りを見回し後ろを振り返る。すると石田も訝しげな顔をし
「呼ばれた? 此処には僕と緒方さん以外いないはずですが」 言いながら緒方に倣ったように辺りを見回した。
「そうだな、きっと空耳だろう」
緒方は自分の思い過ごしを紛らわせそうと態と快活な口調で言うが、なぜか下腹の辺りから不快なものが湧き上がり。
そしてそれは徐々に胸のあたりまで這い上がると胸騒ぎに変わった。それが顔にも表れたのだろう。
石田は閉じ終えた書類を引き出しの中に納めるともう一度緒方の顔を見て……聞いた。

「なにか、気になることでも?」
「う、うん。ちょっと、課長の声が、聞こえたような気がしたんだ」
緒方が何となく不可解そうに言うと、石田も蓮見の名前まで出たのが気になったのか、
今度ははっきりと怪訝そうな顔にちょっと眉を寄せた。
「蓮見さんの?」
「うん、そんなはず無いのに……何だろう」
言いながら、緒方はどこか落ち着かない様子でまたも辺りを見回す。そんな緒方に石田は
「気になるようなら、連絡してみたらどうですか」 不安を払しょくするための策を提案した。

「いや、多分気のせいだろう。なんでもないよ」
「でも、気になるのでしょう? だったら、気のせいかどうか確かめてみれば良いじゃないですか」
「そうだな……。じゃ、ちょっとだけ連絡してみるわ。悪いな仕事の最中に」
緒方はそう言うとポケットの携帯を取り出した。
元来緒方は、超常現象とかオカルトとか、そういう事には全く関心もなければ信じてもいなかった。
だから、当然予感なんてものも信じてはいない。だが、なぜか忌々しい程胸のあたりがざわついて。
もしかしたら蓮見に何かあったのでは。そんな事を思い始めると不安は際限なく膨らんでいくような気がした

そして番号を押し終えてもコールしない携帯に、次第に自分の心臓が耳に移動したかのように大きく響き、
二度三度繰り返す指先が微かに震えた。その様子を見ていた石田が、
「どうしたのですか、繋がらないんですか?」  そう言って声をかけた。
「全然繋がらない。いつもなら、たとえ出なくても、留守電にはなっている筈なのに……全く応答なしだ。
これって変じゃないか? もしかしたら、課長に何かあったんじゃ」
そう言うと緒方は一層不安そうな目を石田に向けた。そんな緒方の何処か怯えたような表情に、
石田も嫌なものを感じたのか声が少しだけ強くなった。

「緒方さん、落ち着いて! メッセージセンターにも、繋がっていないんですか?」
「うんでも、すんでも無い。こんな事ってあるのか?」
「……。蓮見さんのような立場の人が、外から連絡がとれない状況にしておくとは考えにくいですね。
蓮見さんの近くにいる人で、確実に連絡の取れる人はいませんか?」
石田の声が物柔らかに手を引くように聞こえ。不安は不安としても、さっきまでの追い立てられるような気持ちが、
何となく楽になったような気がした。だから、目を凝らし繋がらない携帯を見つめながら、
「課長の近くで……そんな奴、俺は知らないし……」
自分で言った言葉でハッとしたように顔をあげると、今度は思いっきり嫌そうな顔で言った。
「あ……いた。一人、憎たらしいのが」
そんな緒方が可笑しかったのか、石田の顔にも笑みが浮かび。そして、

「憎たらしい……まぁ、誰の事か解りましたけど。それじゃ、その憎たらしい人に確認してみたらどうですか?
蓮見さんと連絡が取れるかどうか。それと、蓮見さんが今何処に居るのか聞いてみましょうよ」
石田言われ、緒方は片岡のうす笑いを思い出した。だから声までぶすっとし、不貞腐れたようになった。
「あいつは駄目だ。どうせ良いようにあしらわれる」
「でも今は、それ以外に手は無いんですから仕方ないですよ。蓮見さんの事が心配なんでしょ、だったら我慢して……」
石田の諭すような言葉に、緒方は暫し迷うような顔をした後、諦めたのか納得したのか。
「そうだな……解った、聞いてみるよ」
それでもやはり面白くない……そんな口調で言い何かを思い出すように宙に目を向けた。

片岡の電話番号は、蓮見と同様前の携帯に入れたまま解約したため今の携帯には登録されていなかった。
それでも番号を覚えていたのは、緒方は数字を一目見ただけで直ぐに暗記出来。それと同時に、
一度覚えた数字は簡単には忘れなかった。但しそれは10桁程度までの数字なのだが、それでも咄嗟の場合など、
いちいちメモを取る必要も無いし、単価表なども改定がないかぎり見る必要がなかった。
そういう意味では何かと便利ではあったが、だからと言ってその事を特に意識したことも無かった。
だが今日だけは、自分が数字に強くて良かった……心からそう思った。
そして記憶のアドレス帳から片岡の携帯の番号を引き出すと……意を決したかのようにボタンを押した。


その時電話の相手である片岡は……ふと胸の辺りに振動を感じて背広の上から手を当てた。
振動は押さえた手にも伝わり、それが携帯の鳴っている音だと気付くのにそれ程の時間は掛からなかった。
灰色の世界で外からの侵入者は執拗に鳴り続け、片岡はポケットに手を入れそれを取り出し。
見知らぬ番号に、そのまま携帯を閉じ……それから、もう一度開いた。そして、

「奈落からの誘いか、それとも出口に続く糸か……」 小さく呟くと、それを確かめるように耳に当てた。
「もしもし、片岡さん? 俺、緒方ですけど」 だが聞こえてきたのは、少し不安そうな緒方の声だった。
「……君か。今になって、やっと文句を言ってきたのか」
自分のした事を思い出して片岡が言うと、意外にも緒方はホッとしたように数秒の間を置き、それから。
「そんなんじゃ無いですよ。課長の事を聞きたくて……課長は、蓮見さんはどうしていますか。
何も変った事無いですよね。 元気なんですよね」
やはり心配そうな声で、蓮見の事を聞いてきた。

(こいつは……) そう思いつつ、それでも切羽つまった様子の声に、蓮見が最後に見せた笑顔が頭に浮かんだ。
「……一体どういう事なのかな。社長は此処には居られないが」
「携帯が、携帯が繋がらないんですよ。うんでもすんでもなくて、留守電にもなっていない。
あんたなら課長の様子が判るかと思って電話したんだけど……なぁ、課長は無事なんだよな。どうなんだよ!」
緒方がとうとう怒鳴るように言い。片岡は、(無事? こいつは何を言っているんだ。あいつは今この海の上で……)
そんな事を思っていると緒方に代わって、今度は聞いたことも無い声が耳に飛び込んできた。

「失礼します、僕は緒方さんの友人で石田と言います。蓮見さんがこちらに出向されていた際、
何度かお会いした事がありました。実は蓮見さんと連絡を取りたいのですが、携帯が全く通じる気配が無いのです。
貴方なら必ず蓮見さんと連絡が取れると聞きまして、なんとかお願いできないかと。
なにか嫌な予感がするんです。お願いします、大至急、蓮見さんに連絡をとってもらえませんか」
(嫌な予感? 嫌なって……それはどういう事だ。此奴らは何を言っているのか。
自分はずっと……もうずっと嫌なものを抱えて生きてきたと言うのに……今更嫌なもの等有りはしない)

「社長は、いつも携帯を所持しておられますから、そんな筈は無いと思いますよ。
仮に、もし本当に繋がらないのだとしたら……そうですね、捨ててしまわれたのかも知れないですね」
「捨てた? 携帯をですか? それはどういう意味ですか」
「社長はある方に望まれて、その方と一緒にイタリアに行かれます。そのため今その方の元に向かっている途中です。
以前からお話はあったのですがやっと決心されたようで……おそらく、もう日本には戻って来られないでしょう。
そういう事なので、日本での事は全部捨てて新しく出直すつもりなのかも知れませんね」
「だから……連絡用の携帯も捨てたと……」
「はい。それなら繋がらなくても問題は無いでしょう」

「蓮見さんはイタリアになど行きませんよ。勿論そんな人の元に行くはずがありません。
あの人には、緒方さんしかいませんから。それが叶わないと判ったら……誰かのものになる位なら自分を。
蓮見さんはそう言う人だと思っています。だから……もしかしたら今頃。
何処に向かったのですか! 今すぐ安否を確かめて下さい! でないと、取り返しのつかない事になります。
私たちも今から直ぐに、蓮見さんのいるところに向かいます。何処に……今何処に居るのですか! 蓮見さんは!」
耳に響く声は確信に満ちて聞こえ。(なぜこの男は、こうも自信ありげにそんなことを言えるのだろう。
何を根拠に言い切れるというのか。それに、この有無を言わせぬ口調は……この私にまで万一を疑わせてしまう。
決してこの男の言うようにはならない) そう思っても、あの最後の笑顔が片岡の胸に不安を呼んだ。

「……社長は、今は海の上です。○×島に向かっている途中ですから……もう直ぐ着かれると思います」
「○×島? フェリーでしょうか」
「いえ、高速艇です」
「高速艇……○山からのチャーターですか。それは何時に出ました? 蓮見さん、お一人で向かわれたのですか?」
「一人で行くと言われて……」
片岡はそう言いながら、自分の鼓動が徐々に速くなり、まるで巨大な錘で胸を押し潰されているかのように
呼吸まで苦しくなって……溜まらずに大きく息を吸い込むと、肺が潮の香りで一杯になった。

「僕たちはこれから、×島に向かいます。あなたも、ボートに連絡を入れてみてください。それと島にも。
最悪の場合、警察や沿岸警備隊にも連絡が必要になるかも知れませんね。
あなたは、蓮見さんの一番身近にいて蓮見さんの何を見ていたのですか。僕にさえ見えたあの人が貴方には見えなかった。
そういう事なのでしょうね。出来たら最悪の場所ではお会いしたくありませんね……失礼します」
最後に怒りと蔑みの響きを片岡の耳に残し電話は切れた。


そして、片岡との話の途中で石田に携帯を奪われてしまった緒方は、そのやり取りに耳を傾けていたが、
石田の口から飛び出した警察という言葉に、一瞬心臓が止まるかのような驚きで、
「どういう事だよ! 警察だなんて、課長に何かあったのか!」
思わず大声を出した。だが、石田は緒方を手で制止するとそのまま片岡との会話を続け。
緒方は息を飲み込んだまま石田の横顔を凝視しながら、蓮見の身に何かが起きているのだと察した。
そして石田が携帯を閉じるが速いか、怒鳴るように石田に聞いた。
「課長に、何があった! 課長は無事なのか!!」 それに対し石田は静かな声で、
「今はまだ判りません……」 と、答えた。

「判らないってどういう事なんだ! あいつは、片岡はなんて言ったんだ」
「蓮見さんは、誰かと一緒にイタリアに行く事になっているそうです。だから、今はその人のいる○?島に向かっていると」
「イタリアに? それがなんで○?島なんかに向かっているんだ」
「さぁ……其処にその人物が滞在しているのでしょう。でも、イタリア行もまだ不確かでしかありませんけど」
石田はそう言ったが、片岡とのやりとりから、本当はその誰かが蓮見を迎えに来たのだという事は容易に想像できた。
そしてそれは、課長とは違う蓮見の選んだ道。二度と日本には戻らない。そういう事なのだろうと思った。
その瞬間自分を構成していた中身がずるずると抜け堕ちていき、怒りとか悲しみまで引き連れていくような気がした。
「それでも、課長が自分でイタリア行きを決めたって事に変りは無い。それなら、もう俺には何も出来ない」
言いながら頭の中では (なんだ……思ったより簡単に終わりになるもんだな) そんな事を考えていた。

「緒方さん! いい加減気付いたらどうですか。蓮見さんが、本当にそんな事を望んだと思っているのですか?
もしそう思っているのだとしたら、緒方さんもあの片岡って人と同じだって事です。情けないですよ。
僕は、蓮見さんはどんな事にも揺るがない強い意志と、純真なひたむきさで必死に何かを守っているのだと思います。
それが何なのか判らないけど……あの人の大切なものは判ります。緒方さん、貴方ですよ。貴方が大切なんです。
緒方さんには、遠い過去に好きな人がいたんですよね。 でも、過去は過去であって現在じゃないんです。
そして今は、蓮見さんが好きなんでしょう? だったら、その気持ちを大切にしたら良いじゃないですか。

どんな人と、何があったのか知りませんが……多分その人は許してくれますよ。
好きな人が自分を思って苦しむよりは、幸せになってくれる方がずっと良い。僕ならそう思います。
だから緒方さんも、今此処で心を決めて下さい。どんな事をしても蓮見さんを捕まえるか、それとも諦めて忘れるか」
石田の怒っているような声と真剣な目が真っ直ぐに緒方に注がれ、痛いほど心に刺さる。
(どうしてこいつは、こうも真っ直ぐに見つめる事が出来るのだろう。どうして、そんなに強く優しくなれるのだろう。
どうして俺は……) 思いながら、その目に縋るかのように言葉がでた。

「聖羅に言ってやりたかった。お前が好きだって。けど、課長に出会ってあの人の事が好きになった。
課長を好きになればなるほど、聖羅の事が鮮明に思い出されて。あいつに言えなかった言葉が重く圧し掛かって。
聖羅にすまないような気がして、後悔ばかり膨らんで……それでも課長の事が好きで……俺は酷い男だ」
緒方の目には涙が浮かび、石田にはそれが緒方の後悔と苦しみの結晶のように見えた。
「良いじゃないですか。その言えなかった言葉を、今度は蓮見さんに言ってあげれば。
過去に言えなかった言葉と、伝えられなかった想いを、今一番好きな人に伝えれば良いじゃないですか。
そうでないと又後悔しますよ。 この先もずっと……後悔しますよ」

「石田……」
「さてと、それじゃ急いで行く事にしましょうか。詳しい状況が判らないのではっきりとは断言できませんが、
蓮見さんは死のうとしているのでは……そんな気がします。出来れば思い留まってくれていれば良いのですが。
もしかすると最悪の事態になるかも知れません。辛いと思いますが覚悟だけはしておいてください」
最悪の事態……はっきり言葉にして言われた事で、薄々感じていた不安の正体が頭の中で姿を現した。
イタリアに行って会えなくなる別れとは違う、本当の意味での別れ。そんな最悪の場面。
それなのになぜか、蓮見を抱きしめて 「愛している……二度と離さない」 そう言う自分が見えるような気がした。


今まで石田の口から家の話が出た事はほとんどと言って良いほど無かったが、自分を含め男なんてそんなものだろう。
そう思っていたから、緒方はそれを気にした事も無かった。だが、石田の連絡を受けた父親が自分のジェット船を待機させて、
石田と緒方の到着を待ち受けていたのには、正直驚いてしまった。そのうえ、石田の実家が代々続いた網元の家で、
今は漁船の他に釣り船や客船等も手がけているT市でも有名な旧家だと聞くと、
途端に石田が育ちの良い御坊ちゃんに見えてくるのが不思議でもあった。それでもやはり石田は石田に違い無く、
「緒方さん、何をしているんですか。一刻争う時ですよ、早く乗ってください」
そう言って促され、緒方は背を押されるように船に乗ると少し荒れ始めている海原に向かって港を後にした。
そして沖合に出た頃緒方の携帯が鳴った。緒方は一瞬蓮見からかと緊張したが……相手は片岡で。
それを知った石田が、相手が片岡では緒方が感情的になると思ったのだろう。
「僕が話しても良いですか」 そう言って手を出した。

結局一つの携帯を挟むように二人が耳を寄せて聞いた片岡の話によると、あの後蓮見の携帯に連絡を入れてみたが、
やはり繋がらず。それではと島に連絡を入れて、初めて蓮見は島にも行っていなければ何も連絡の無い事を知った。
そして、石田の言った事が現実になりそうな気配に慌て、高速艇と連絡を取るためにあちこちに電話を掛けている最中に、
艇の運転手から連絡があった。運転手はおろおろとした声で
「港を出て暫くは後ろの方に座って海を見ていた蓮見が、気づいたらいなくなっていた」
そんな様な事を言い。その言葉で片岡は、石田の言った最悪の事態……が実際に起きた事を知った。
緒方と石田は黙って片岡の話を聞いていたが、最後に石田が高速艇の運転手の連絡先を訪ね。
それから、「一応警察にも連絡しておいた方が良いでしょう」 そう言って片岡からの電話を切った。


覚悟を決めたと言っても実際に最悪の状況が現実として目の前に迫ってくると、やはり平静ではいられなく。
思考が止まってしまった緒方に代わり、石田が高速艇の運転手に電話をかけた。
そしてその携帯を一緒に乗り込んできた漁師に渡すと、向こうの艇の位置から蓮見のいそうな場所を、
予想してくれるように頼んだ。時間と場所によって著しく変わる潮の流れ。
そんなものが素人の自分たちに判るはずも無い。
だからその時になって初めて、石田の父親がなぜ漁師までも同行させたかがやっと判った。

緒方たちの船が海原に漂っている高速艇に辿り着いたのは、連絡が入ってから十五分ほど後の事だった。
艇の後ろの席には、其処に蓮見が乗っていたことを知らせるように、小さなバッグがひとつ……ぽつんと残されていた。
どんな思いで此処に座って、この灰色の空と黒い海を眺めていたのか。
それを思うと緒方の胸は張り裂けんばかりの痛みで、その小さなバックを抱きしめて、声を殺して泣いた。
一人は寒い……凍えてしまう。そう言っていた蓮見が、たった一人で冷たい海の中を漂っている。
側にいてやりたい。寒くないように……凍えないように抱きしめて……緒方はその想いに引かれるように、
舷から身を乗り出し海面を覗き込もうとしたその瞬間、後ろからぐいっと肩を引かれた。

「緒方さん! 諦めるのはまだ早いですよ。探して、探して……見つかるまで探して。
緒方さんが探してあげなかったら一体誰が探すんですか。蓮見さんが見つかった時誰が抱きしめてやるんですか。
覚悟ってそういう事じゃないんですか!! 僕に二人を探させるような真似はしないで下さい」
そう言って緒方をみつめた石田の目が潤んでいた。けっして、蓮見の後を追って……などと考えた訳では無かった。
それでも、蓮見がこの海を一人で漂っている。そう思ったら、蓮見の側へ……身体が無意識に舷を乗り超えようとしていた。
そしてその行動すら意識していなかった自分に気付き、
「すまない……石田。そうだな、半端な覚悟じゃ、課長に会った時怒鳴りつけることも出来ないな」
言いながら浮かべた緒方の笑みは、酷く歪に歪んで見えた。


それから必死の捜索が始まり、石田の父親の指示があったのか、後から数隻の船も加わり広い範囲の海を探しまわる。
そして少しすると、片岡と一緒に島に滞在していたという蓮見の愛人らしき男も駆けつけ。巡視艇まで出て探したが、
朝から天候の優れなかった海は徐々に荒れだし、これ以上は危険と判断されて捜索は打ち切りとなった。
愛人らしき男は片岡の取り成しで島に戻ることを承諾し、しぶしぶの態で帰って行ったが、
片岡だけは蓮見の乗っていた船に留まり、真っ青な顔に異様にぎらつく目で荒れ始めた海をじっとみつめていた。
その鬼気迫る様子に艇の運転手は声をかけるのを躊躇い、そうかと言って船を何処に向けて発進させて良いか解らず、
困った挙句石田に声をかけた。そしてそれを聞いた石田が、片岡の背後に寄るとその頑なな背中に声をかけた。

「片岡さんですか。僕は、先ほど電話で話した石田という者です。大分風も出てきましたので、
これ以上此処に留まるのは危険です。御心配とは思いますが、今日は戻られたほうが良いと思いますよ」
だが片岡は石田の声が聞こえているのかいないのか……振り向きもせず、押し殺した声で呻くように言った。
「私一人だけ残してあいつが死ぬなんて……そんな事は許さない。絶対に許さない。
お前が死んだら、私は誰を憎めばいいのだ。自分を、私自身を憎んで、蔑んで……そうやって生きろと言うのか」
それは誰に問うでもなく、己に吐いた悲痛な呪詛にも似て……石田は思わずそれに答えていた。

「なぜ、憎まなければいけないのですか。貴方は蓮見さんをとても深く愛していた……そうじゃないですか。
だからそれほどまでに憎めた。蓮見さんが乗った船の出た場所から立ち去る事が出来なかった。
本当に憎しみだけなら、心は痛まない、傷つかない。でも貴方は、傷つき苦しんでいる。
その事に気付けば、痛む心も少しは楽になりますよ」 
石田の言葉に、それまで頑なだった片岡の肩がビクリと震え、ゆっくりと振り向いた顔が歪んだ。
そして、深い、深い海の色をした片方の目から大粒の涙がひとつ零れ落ちた。









蒼天のオリオン- Copyright © 2014/ 9/02/sanagi . All rights reserved.   web拍手 by FC2