猫の仔猫 (僕を愛して)


ミヤァ〜 足元に微かな鳴き声を聞き 目を下に向けると
掌に乗りそうな小さな仔猫が、雨に濡れ震えていた。

おそらく誰かが捨てていったのだろう
ダンボールの箱の中にはタオルが敷いてあり、缶詰の餌が一つ…

それが、捨てた人間のせめてもの情けのようにも見えたが
その情けも、この雨のせいでタオルは湿り
餌は雨水が混じったのか、ドロドロになっていた。

「お前も捨てられたのか…」

小椋直己はそう言いながら、其処にしゃがみこむと仔猫の頭をそっと撫でた。
頼りないほどに小さな身体を覆う ふわふわの毛先に雫を纏い、
仔猫は、真っ黒な瞳で尚実を見上げると、その手に頭を擦り付けるようにして
ミヤァ〜 もう一度悲しそうな鳴き声で答えた。

「そうか…悲しいな」

仔猫のか細い鳴き声は、今の直己の心そのもののように思え、
頭を撫でていた手で持ち上げると、仔猫は少しだけ驚いたように手足を動かしたが、
そっと胸に抱くと直ぐに大人しくなった。
そして、直己の指先を小さな舌でペロッと舐め、安心したように目を細めた。

捨てるくらいなら、最初から飼わなければ良いのに…
好きだなんて言わなければ良いのに…愛しているなんて言わなければ…
でも、しょうがないか…人の心は変わるものだから。


「ゴメンね、決して小椋君が嫌いになった訳じゃないのよ。
ただ…優しすぎるって言うか、どこか物足りないっていうか…
自分は、本当に愛されているのかなって、不安になってくるの。
だから…ちょっと強引なくらいの人の方が…・ゴメンね」

そう言って彼女は、直己に背を向けると、待たせてあった男の元へ駆けて行った。
優しすぎる…その言葉が、彼女の自分に対する最大の気遣いなのか
それとも、言葉を変えて責めているだけなのか解らなかったが
いつも女の方から誘ってきて、女の方から別れを言い出す。
その度に同じような言葉を言われ、頷くしか出来ない自分がいた。

「お前も僕と同じだな…」
仔猫のふわふわの毛に、雨粒ではない雫がポツリと落ちた。

夕暮れが近づき、雨も上がりそうな気配になった頃には、
買い物に出る主婦や、学校から帰る子供達の姿が目に付くようになり。
直己もやっと、仔猫をどうしたものかと考え始めた。

すっかり安心したように、直己の腕の中で眠っているのを
今更箱の中に戻すのも可哀相に思えたが…
さりとて、ワンルームのアパートに連れて帰れないのも現実で、
直己は仔猫を抱いたまま、途方にくれ始めていた。

そして…すっかり雨が上がると、直己は意を決したように仔猫に語りかけた。

「ゴメンな…僕はお前を飼えないんだ。
でもお前は可愛いから、誰か良い人が拾ってくれるよ・・」
無責任な事を言っていると思っても、それしか言えなくて…箱の中に戻そうとした時

「貴方ね…無責任にペットを放置されたら困るのよ
飼えないのなら、自分で処分してもらわないと、皆が迷惑するのよ」
後のマンションの住人らしい主婦が、直己を睨むようにして言った。

「え? いえ…この仔は僕のじゃ…」

「何を言っているの、貴方の飼い猫でなかったら、そんなに安心して抱かれて無いわよ
とにかく、其処に置いていかれたら迷惑です。 連れて帰ってくださいね。
全く、生き物を何だと思っているのかしらね…・」

最後の方は独り言のようにぶつぶつ言いながら、
主婦は買い物にでも行くのか、自転車を押して通りへと出て行った。

まさか自分が捨てたと勘違いされるなどとは、考えもしなかった直己は
初めて、飼えないのなら触れるべきでは無かった…そう思った。

仔猫を抱き上げた時、自分が仔猫を拾った事になり、
抱き上げてもらった仔猫は、飼い主が出来たと安心したのかも知れない

一時の安らぎを与え、それをまた無残に壊すなんて
自分のした事は、彼女らと同じ事…抱き上げるべきでは無かった。
後悔したが、今更どうしようもなく…

そうかと言って、此処にいると さっきの主婦が帰って来た時に、
また何か言われそうで、どうして良いか判らなくなって、
とりあえず、マンションの入り口からだけでも離れよう…と、思った。

じっとりと湿ったダンボール箱を片手に、
マンションの横にある 小さな遊び場のような公園の前に移動する

だからと言って、それからどうして良いのか…
辺りが暗くなり、遊び場の公園に街頭が灯っても
仔猫を抱いて、其処に立ち尽くしたままの直己の胸で、
仔猫が ミヤァ〜 と鳴いた。


いつもは深夜になる帰宅が、今日は奇跡的に早く帰れることになり
柏崎は、それが嬉しい…とかは思わなかったが、
いつも無人に近い帰り道が、違う道のように感じたのは、
行きかう人の多さと、街を彩るネオンのせいだろうと思った。

そして、思ったより人が住んでいたんだ…なぜかその事に感心した。

考えてみると、商店街が店じまいする前の帰宅など、ここ数年無かった。
そのせいか、目に映るいつもの街並みが目新しいもののように思え、
少しだけ、自分の口元に笑みが浮かぶのを感じた。

駅から徒歩7分の便利さと、設計の変更が出来る・・。
それが理由で手に入れたマンションは、
ゆったりとくつろげるように…そう思って、3LDKを1SLDKに変更したため
一つの空間が、従来よりもかなり広くなっていた。

だが現実には、殆んど寝る為に変える部屋で、
休日も、平日の睡眠不足を補うように、ひたすら寝ているだけで、
それが寛ぐ事になるのかどうかは判らないが、少なくとも今日はゆったりと本でも…。

そう思い、途中の店でビールとつまみになりそうなものを買うと
思い出したように、朝のパンと牛乳…
ついでにそれらも買い足して、満足げに頷き家に向かって歩き出した。

マンションの側まで来ると、横手にある子供の遊び場の前で
じっと立ち尽くしている不審な人影が目に入った。

なんだ? 不審者か?…・そう思いながら近づくと
その人物は まだ若い男で、胸に小さな生き物を抱えて立ち尽くしていた。

その顔は、今にも泣きだしそうなほど心細げで、
見ようによっては、確かに不審者のように思えた。

こんな時間に こんな所で何をしているんだ? 誰かを待っているのか?
そう思いながら、ふと青年の足元に目をやると 薄汚れた段ボール箱

まさか、ホームレス? それにしては小奇麗な身なりをしてる。
それより何より、街頭の下で見た青年の顔は、
男にしては、柔らかい面差しの綺麗な顔をしていた。

だが今は、ホームレスまがいの若者が増えているという。
ネットカフェや、公園などで寝泊りし、定職にもついていないて若者が。

ふ〜ん こういうホームレスもいるのか…勿体ないな。
柏崎は、なぜかそんなふうに思った。


一旦は止んだ雨が、またぞろ しとしとと降り出し衣服を濡らし始める
何人かの主婦や子供達が、通りすがりに仔猫を見たが、
可愛いと言うだけで、誰も、貰うとは言ってくれなかった。

それもそのはず、直己が捨て猫だと言わないから、
皆直己の仔猫だと思っているらしく、それが判っても 
「貰って下さい」 その言葉が、どうしても言えなかった。

相手に自分の気持ちを伝えることや、意思表示をした事のない直己は、
黙って相手に従う…そうして今まで生きてきた。

長男でありながらも、5人兄弟の末っ子の直己は、
上が全員女という事もあって、祖母が姉たちに口うるさく言う、女性としての心得?

慎み深く、前にしゃしゃり出ない、相手に従い逆らわない…
勿論、自分を主張などとんでもない、礼儀正しく、いつもにこやかに、
などなど…家訓ともいえる、それらの教えがいつも頭にあって、
それがとても良い事と信じていた。

「直己はいい子だね…
婆ちゃんの言うことを解ってくれるのは、直己だけだよ、
だから婆ちゃんは、直己が一番可愛い…」
祖母はいつもそう言って、いつも直己の頭を撫でてくれた。

だが、大学に入り上京すると、それが全く役に立たないどころか、
今の社会では通用しない、過去の人物像に外ならず
特に男にとっては、減点の対象以外何物でも無いことを知った。
だが長年培われた習慣は、そうそう直せるものでは無く。

婆ちゃん…僕は、婆ちゃんに一番可愛がられたけど、
婆ちゃんは、僕をちゃんと男として見て、育ててくれたのかな。
直己心の中で呟いてみるが、祖母が死んだ今となっては、その答えを聞くことも出来ず。
だが、何となくではあったが、そうでは無かったのかも知れない…直己は、そんな気がしていた。

 

仔猫はお腹がすいたのか、さっきから、ミヤァ〜ミヤァ〜と泣き出して
それにこのままでは、自分も仔猫もずぶぬれになってしまう。

部屋に連れ帰って、こっそり飼えば…直己はそう思って、
先日、内緒で子犬を預かったのがばれて、追い出された住人の事を思い出した。

動物は鳴くから…それで直ぐにばれてしまう。
でも、今晩一晩だけなら…・明日は絶対飼い主を探してやれば…
そんな事を考えていたせいか、マンションから人が出て来て、
側に近づいて来ていたのにも、直己は気付かないでいた。

「僕を飼ってください…か。 つまり、捨て猫という訳なんだな。
良いだろう…私が飼ってやるから、付いて来なさい」
突然の男の声に、驚いて声のしたほうに顔を向けると、
声の主は既に、直己に背中を向けてマンションの入り口に向かっていた。

え? 今なんて? 確か飼ってくれると…・言ったように聞こえたが…
そう思いながらも、直己が少しだけ躊躇っていると、男が振り向き、

「早くしなさい。 それと…そのダンボール箱も忘れず持って来なさい。
其処に置きっ放しだと、苦情が出る」 と、言った。
やはり、飼ってくれるんだ…良かった
ホッとした、と言うより嬉しくて、思わず胸が一杯なり…

「は、はい!」
直己は大きな声で返事をすると、急いで足元のダンボール箱を持ち上げた…が
箱は再度の雨に、すっかり形を留めることが出来なくなったようで
持ち上げた拍子に、グシャリとつぶれ やけに重い只の厚紙になっていた。

それを懸命に小脇に抱えると、ぼたぼたと雫を垂らしながら男の下へと急ぐ。
入り口ドアの前まで行くと、男は雫の垂れているダンボールを見つめ、

「それをエレベーターに乗せる訳にはいかないな…
私は、それを集積所に置いてくるから、君は此処で待っていなさい。」
そう言って直己の抱えたダンボールを取り上げると、さっさと玄関横を回り、裏の方へと行ってしまった。


柏崎は、猫を飼うつもりなど無かった。 
それなのに飼うと言ってしまったのは、
窓から見下ろした其処に、あの青年が雨に濡れながら佇んでいた。

あんなにびしょ濡れになってまで、なぜあそこに居続ける…なぜか、その事が気になった。
そして、使い捨ての傘があった事を思い出し、せめて傘でも…・そう思った。
近づいて見ると、さっきは目に入らなかったダンボールにマジックで描かれた文字

誰か、僕を飼って下さい。 
そう読めた時 「私が飼ってやろう・・」 言葉が勝手に口をついて出た。

全く…何時に無い早い帰宅は、ろくな事を運んでこないな…・
思わず苦笑しながら、集積所の電気をつけ、
ダンボールを、資源ごみのエリアに運び 其処に置こうとして
マジックで描かれた文字の下に、ペンで書かれた小さな文字を見つけた。

綺麗な優しい字で、
誰か…たった一人で良いから…僕を愛して。
僕は、永遠に貴方だけを愛し続けるから…

これは、仔猫の?…それとも自分の事? 
まさかな…柏崎は、小さく頭を振ると ダンボールを其処に置いた。

そして…入り口でもう一度振り返り、置いたダンボールに目をやると、
電気を消し玄関へと向かった。


部屋に入ると、柏崎は直己を玄関に残し洗面所に行き、
タオルを持って戻ると、それを直己に手渡しながら

「これで仔猫を拭いてやりなさい。
それから洗面所に行って、その濡れた服を脱ぎシャワーを使いなさい。
雫が垂れたままで、部屋の中を歩き回られては 後が大変だからな。
着替えは…大きいと思うが、私の服で我慢しなさい」
柏崎に言われ…この場で失礼します…そう言おうかと思ったのに、

「はい…」 と言って、柏崎の言葉に従ったのは、

酷くぞんざいなようにも、とても優しくも聞こえる 柏崎の声と口調に、
なぜか安心するような響きを感じ、素直に従うことに違和感がなかった。

「シャワーを使ったら、冷蔵庫にミルクが入っているから、それを仔猫に」
と、言ってから

まるでおっぱいでも探すように、タオルに鼻先をくっつけて、
ミヤァ〜ミヤァ〜と鳴く仔猫を見て、

「ん? こいつは お腹が空いているのか?」
柏崎は、珍しいものでも見たような顔で直己に聞いた。

「はい、多分…そうだと思います。
もう、5時間以上何も食べていませんから」
直己が答えると、柏崎は 今度は驚いたような顔で聞いた。

「5時間? 君は5時間も、これを抱いてあそこに立っていたのか?」

「は・・はい…でも、誰も貰ってくれなくて、どうしようかと…。
本当に有難う御座いました。 これで、この仔を捨てた人も安心すると思います」
直己がそう言って頭を下げると、柏崎が怪訝そうに聞く。

「こいつを捨てた人? 君の猫じゃないのか?」

「僕は雨宿りをして、この仔を見つけただけです。
でも、僕はこの仔を抱き上げたから…一度は拾ったから…
誰かに飼ってもらえるまで、どうしても見届けたくて」
そう言いながら、仔猫の頭をそっと撫でる若者の指先がとても優しく、
柏崎は、何か不思議なものを見る思いで、その指先を見つめる。

「…・・呆れたな、捨て猫に付き合って雨の中5時間もとは
安心しなさい…・と言いたいところだが、
私も色々あって、正直困ったと思っているんだ」 
と、言った。 途端に、直己の顔に不安の色が浮かぶ。

「え?まさか…駄目だって…」

「いや、それは…・とにかく先に着替えて来なさい、話はその後で…
こいつには私がミルクをやっておこう」
そう言って柏崎は、直己の手から仔猫を受け取ると、キッチンへと入って行った。

折角いい人に貰われたと思ったのに、駄目だと言われたらどうしよう…。
シャワーを浴びながら、直己の考えるのはその事だけで、
浴室から出た後の話を思うと、此処から出たく無いとさえ思った。


浅型の小鉢に入れたミルクを、ぴちゃぴちゃと舐めている仔猫を見ながら
柏崎は、若者の事を考えるとも無く考えていた。

他人の捨てたペットの為に5時間も…
正直…今時、あんな人間がいるなどとは思いもしなかった。
あれは、今の社会で生きていくには…決して有利とは言えないだろう。
良くも悪くも、自分とは正反対のタイプ…だと思った。

だが…仔猫を飼ってもらえると判った時の、あの顔と、
仔猫を撫でる優しい指先が…なぜか、柏崎の心に残って…
だから、もう少しだけあの青年と関わってみたい…そう思った。

仔猫くん。 悪いが、その為にお前さんを、利用させてもらうよ。
柏崎は、美味しそうにミルクを舐めている仔猫に語りかけながら、
そんな自分の心境の変化に苦笑を浮かべた。


「すみません…お借りしました」
そう言って、浴室から出てきた直己を見て、柏崎の顔に思わず笑みが浮かぶ。
ぶかぶかのTシャツもさることながら、ズボンにいたっては…

「やはり…デカイな。 中で泳げそうだ」 
柏崎が言うと、直己は恥ずかしそうに、顔をほんのりと染め、
ミルクを飲み終えて、床で丸くなっている仔猫をそっと抱き上げる。
そして…やはりその頭をそっと撫でた。

柏崎はそんな直己に、椅子に座るよう促すと
直己は仔猫を抱いたまま、幾分不安そうな顔で、柏崎の正面に座った。

柏崎の言った、仔猫を飼う為の条件というのは
仕事でほとんど家にいない柏崎に代わって、時間のあるときは、
直己が此処にきて、仔猫の面倒を見るなら飼っても良い…と。

柏崎がその事を告げると、直己は、一瞬、え? という顔をしたが、
その意味を理解すると、
「はい! 僕の方こそ、この仔を飼って頂けるなら、世話でも何でも喜んで」
と、言って 初めて本当に嬉しそうに笑った。

まさか、そう簡単に承諾するとは思っていなかったから、
直己の笑顔は、柏崎を少しだけ驚かせ、それから、少しだけ呆気にとられながら…

「そうか…それでは、君にこの部屋の鍵を一つ預けるから
君の、都合の良い時に来て、こいつの世話をしてくれれば良い」
すると今度は直己が、驚いたように言う。

「良いのですか? 僕なんかに鍵を預けたりして・・」
その顔が、思いの外子供っぽく見えて…ふと、幾つなのだろう…
等と、要らぬことが頭に浮かび…柏崎はそんな自分に苦笑いしながらも、

別に、計略をもって…等というつもりではないが、
このまま終わりにしないためには、どうすれば…と、考える。


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