猫の仔猫−2


「鍵がなくては入れないだろう…それに君は、こいつの親みたいなものだからな
飼い猫の親なら、私にとっては同じ飼い猫…いや、家族みたいなものだよ。
それで…早速で悪いが、明日の都合はどうかな?…

出来たら、こいつのハウスやトイレなど買いに行きたいのだが、
私は、動物を飼うのは初めてでね…さっぱり要領が解らないのだよ」…

その困惑したような表情が、柏崎にはとても不似合いな気がして、
それが可笑しくて…直己は、少しだけ柏崎が身近に感じられた気がした。
だから、
「あ! それなら僕も一緒に…僕も明日は休みですから」
答える声も弾んだものになった。…

それは柏崎にとって、またまた意外でもあり…ホッとした部分もあり、
それより、大きく心を占めたのは…嬉しい…という感情…で、…

「そうか、それは大いに助かる。
その礼という訳じゃないが、帰りには、何か美味しいものでもご馳走しよう」
そんな言葉が、自分でも意図せず口から出た。…

多分この時、柏崎を知っている人間がみたら、目を丸くするだろう…と、思えるほど
彼には似つかわしくない、とても優しい笑みを浮かべていた。…

「はい! 有難う御座います。
あ! あの…僕は、小椋直己(なおみ)大学二年です 宜しくお願いします」
直己がそう言って頭を下げると、直己の膝に抱かれていた仔猫が、
自分も一緒に…と、いうように、ミヤァ〜 と鳴いた。
それが、可笑しくて二人の口元が綻ぶ。…

「あぁ、お互いまだ名前も知らなかったのだな。 そうか、君は学生なのか。
私は、柏崎勇人(ゆうと) 見てのとおり、しがないサラリーマンだ」
そう言いながら、直己が目を見張るような 極上の笑顔をみせた。…


それから、ほぼ毎日のように…直己は柏崎のマンションに通う。
通うと言っても、柏崎のマンションは、大学と直己のアパートとの間にあるので
直己にとって、それは特に面倒と思える事では無かった。…

むしろ、楽しみのひとつと言って良いほどで…時間があれば仔猫に会いに行った。
真新しいハウスは リビングの窓際に置かれ、一応柵で囲い、餌も、トイレもその中。…

でも、猫に柵なんて意味もないし、食事とトイレが一緒っていうのも…と思ったが、
柏崎は、自分のエリアを教える為とかなんとか言って、その柵を購入した。…

もう少ししたら窓を付け変えて、ベランダに出入り出来るようにするとか、
爪とぎは、ベランダに置いた柱でするようにさせる…とか
動物を飼うと言うより、何処と無く人間の子供を躾けるような もの言いに、
結構教育熱心なパパ?になるのでは…直己は何となくそんな気がした。…


誰も居ないリビングの片隅で、小さく丸くなっていた仔猫が、
直己が部屋に入ると、待っていたというように ミヤァ〜 ミヤァ〜 と、鳴き出す。…

「ゴメンね、一人で寂しかった?」
そう言いながら、サークルの中から抱き上げると、
仔猫は直己を見つめ、 ミヤァ〜 ひと際大きな声で鳴いた。…

「そうだよな、こんな広い部屋で…誰も居なくて・・寂しいよな」…

仔猫を撫でながら、そのまま其処に座ると
仔猫は、暫く直己の手の温もりを追うように 小さい頭を擦り付けていたが、
やにわに身体を反転させると、直己の膝の上から飛び降りた。…

そして、直己を見上げるようにして、また ミヤァ〜と鳴く。…

「そうか、お腹がすいていたのか。 解った、今ご飯あげるからね」…

そう言いながら、食器と水入れを洗い、それに餌と新しい水を入れてやると、
仔猫は、美味しいよ…とでも言うように、ウニャウニャ言いながら食べる。…

本当に、ウマイニャ、ウマイニャ…そう聞こえるから不思議な気がする。…

直己が居る時は、缶詰や鶏肉などをあげるが、
仔猫だけの時は、食べ残しに虫が寄ってくるから、いつもドライフードにしていた。
だから、直己のいる時の食事は、余計に美味しいと思うのかも知れない。…

仔猫が食事をしている間に、トイレの掃除とハウスの敷物を代え、
それで、直己の目的は済むのだが、直己はそのまま帰る事は無かった。…

ご飯を食べ、少し遊ばせてやると、仔猫は疲れたのか手足を伸ばして寝てしまう。
その姿は、此処が安心できる場所だと解っているかのように、無防備に寛いで見えた。
その、柔らかく頼りない…小さな体を撫でながら、…

「良かったね…あの人はきっと、お前にとても優しいんだね…」
直己が呟くように言うと、寝ている仔猫の耳がピクリと動いた。…


人間に比べて、犬猫の成長は何倍も早く、三月もすると
仔猫は、既に仔猫と呼べないほど成長し、サークルも難なく飛び越えて
直己が行く前に、リビングのソファーでのたばっている事が多くなった。…

餌も一日に二・三回ほどで良くなったし、ベランダと部屋を自由に行き来して、
新しくベランダに設えたトイレで用を足すようになっていた。
それでも、直己の姿を見ると、嬉しそうに?ニャ〜と鳴き足元に擦り寄ってくる。…

始めのうちは、仔猫の世話だけだったマンション通いが、
いつからか部屋の掃除をしたり、溜まっている洗濯物を洗ったりするようになって、
これじゃ、あの人の世話までしているみたいだな…
そう思いながら、直己は心のどこかで、嬉しさと同時に後ろめたさを感じていた。…

仔猫の世話が必要なくなったら、僕が此処に来る理由も無くなる。
だから…こうして、部屋の片づけをしたり、洗濯をしたりして、
此処に来る理由を見出そうとしているのでは…。…

そして、週に一度しか会えないあの人に…会いたい……

平日は殆んど会えないけれど、土曜か日曜日はどちらか必ず休みで、
少し前に、休める日を記したメモが置いてあった。
そして、一緒に仔猫の餌やトイレシートといった物を買いに出掛ける。…

そのあと、二人で食事をしたり…散歩をしたり…そんな些細な事が嬉しくて、
その日が待ち遠しくて…一週間が長くて…。…

それが今日は…それを見た時、僕の胸に湧き上がったものは
今まで付き合った彼女達にも感じたことの無い、嬉しさと切なさで胸が一杯になった。…

僕は…あの人の側に居たい…そう思っている。
僕は…・今の時間がずっと続けば良い…そう思っている。
その事に気付いて、直己は愕然とした。…


何時の頃か、家に帰ると前の晩に飲んだ酒のグラスが綺麗に洗われ、
脱ぎっぱなしのパジャマが、きちんとたたんでベッドの上に置いてあった。…

それから…溜まっていたタオルやシャツなどの洗濯物が洗ってあり、
やはり綺麗に畳まれて、メモと一緒にソファーの上に置いてあった。…

「すみません、勝手な事をしてしまいました。 許して下さい。」
それを見た時、柏崎は不快感とか違和感より…妙な愛しさを感じた。
 
いや、違和感は、感じてはいたのだが、初めは、それが何なのか気付かなかった。
家に帰ると、なぜか家の中全体が、ゆったりと優しい気配に満ちていて、
部屋の空気が柔らかくなっているのを不思議に思った。…

やがてそれが、直己の残り香だと気付き、その中にいる心地良さを知った。…

参ったな…猫を飼うつもりが、猫に囚われたか…・そう思った時、柏崎は決心した。…

今までは、休みといえば昼近くまで寝ている柏崎を気遣ってか、
直己は午後になってから、マンションを訪ねるようにしていた。
だから、前日柏崎はメモに記した。…

「明日は車で、少し遠出をしようと思っている、出来たら君と一緒に…
もし嫌でなかったら、明日はいつもより早めに来てくれないか?」…

そして…その日
猫をペットサロンに連れて行き、シャンプーをしてもらうと、そのまま預ける事にして
柏崎は直己を乗せて、車を発進させた。…

何処にという当てもないまま、高速に乗りやがて海が見える辺りに来ると
直己は、目を輝かせ、窓に張り付くようにして、見え隠れする海原を眺めていた。…

その様子が、本当に子供のように思え…
「海が好きなのか?」
柏原が聞くと、直己は車窓から柏原に顔を向けると、…

「はい! 僕の田舎は海が無いので…」  
幾分紅潮した頬のまま答える。…

「そうか、それじゃ今日は海のすぐ近くまで行ってみるか?」
柏崎が、一瞬前に向けていた顔を、直己に向けた。…

「え! 本当ですか? 嬉しいな。
恥ずかしいけど、僕は一度も海に入った事ないんです」
ビックリするような、直己の告白?に…

「そうなのか? それじゃ、海で泳いだ事も…」
問いかける柏崎の横顔に、直己の小さな声…

「ありません、小さい頃は川遊びをしましたが、後はプールで
だから、あまり泳ぎは得意じゃないんです」
…恥ずかしそうに言う直己が、やけに可愛いらしく思えて
柏崎は、ハンドルから片手を離すと
その手を直己の頭に伸ばし、髪をくしゃくしゃっと掻き回した。…


海に入るには、既に季節は通り過ぎていたが、
それでも若者達はボードを小脇に、海中へと乗り出していく。
…いつも人に従い…佇んで…ただ待っている…だけの自分。
それに比べ、あの若者たちは…自分から雄大な海へと向かっていく。…

波間に漂う 小さな黒い木の葉のように見えても、
彼らにとって、海は季節に関わりなく側にあって、
自分も既に海の一部…自然の一部…なのかも知れない。
…直己には、初めて見る現実の彼らが、とても自由な者のように映った。…


海沿いのホテルは、海で遊ぶには季節が過ぎているというのに、
それとは別に、温泉を楽しむ客も結構いるようで、人の姿が多いのに驚いた。
其処で、海の幸満載の遅い昼食を済ませると、海岸に出てみる。…

大小の石で埋め尽くされた海岸に設えた露天風呂には、
入浴中の客の姿も多く見受けられ、
衣類を身につけているこちらが恥ずかしくなるほど、
皆堂々と、裸を晒して?いた。…

「どうだ? 入って見るか?」 
からかうような柏崎の言葉と、その視線に、直己の顔が赤く染まる。…

「え? い・・いえ…僕は…」
なぜか、どぎまぎと答える自分が恥ずかしく思えて、直己が俯くと、
柏崎は…やけに楽しそう…に…

「こうも明るいと、さすがに恥ずかしいか?」 と、聞いた。…

「い・・いえ…あ、はい・・」
なぜ、こんなに恥ずかしいと思うのか、不思議に思えたが、
ただ何となく…裸は…恥ずかしい…直己はそんな気がした。
そして…晒すなら柏崎だけに…心の片隅でそう思う自分に羞恥した。…

「まぁ…君の裸を人に見られるのは、私も好ましいと思わないか…」…

独り言にも聞こえる口調で言ったその言葉に、直己は一瞬耳を疑った。
今の言葉は?…どういう意味…・ですか…
思わず見上げた柏崎の横顔は…その意味を直己に教えてはくれなかった。…


「毎日ご苦労さんだったね、リュウ(仔猫の名前)の世話から、
掃除洗濯まで君にさせてしまって、本当に申し訳なかったと思っている。
長い間世話になった、礼を言うよ」…

露天風呂から、少し離れた防波堤に並んで腰を下ろすと、
柏崎は、はるか先の海原に目を向けたまま言った。…

「え? 今、なんて…」
直己はその言葉を、潮風のせいで聞き違えた…・と思った。…

「リュウもそろそろ大人に近づいてきたからね、
君が頻繁に世話をしてやらなくても、もう一人でも大丈夫だろう。
だから…鍵を、返してもらいたいんだ」…

やはり…聞き違いなどではなかった。
それは…もう、あの部屋には来るな…という事で、
僕は、二度と貴方には会えなくなる…という事…・ですね。
直己はその時…潮風は目にしみて痛いものだ…と思った。…

「…・はい…」
涙が零れるのは、目が痛いから…・心が痛いせいでは無い。
そう思っても、痛い心は…やはり痛くて、
涙は心が泣くから出るのだと…初めて知った。…

「なぜ泣くんだ…」
そう聞いた柏崎の声は、優しいようでいて、
酷く冷たいもののようにも聞こえ、答える直己の声が微かに震えた。…

「目が…痛いから…・潮風で目が…」…

「そうか、潮風のせいか…それが、君の本当の心なのか。
私は…リュウと会えなくなるから…そして、私と会えなくなるから…
だから君は泣いてくれた…そう思いたかったよ」…

そう言った柏崎の声も、口調も、言葉も…その意味すら考える事も出来なくて、
直己はただ俯いたまま 呟くように言う。…

「…どうして、そんな事…」…

「君は何時でも、自分の心を抑えて表に出さない、自分を主張することが無い。
いつもにこやかに笑って、相手に従う…決して、自分の心を見せない。…

それは、楚々として奥ゆかしい…ある意味美徳でもあるのだろうが、
相手にとっては、時に不安以外の何物でもなかったりするのだよ。…

自分と居て、本当に楽しいのだろうか、嫌なのではないだろうか。
君が、本当は何を思い、何を求めているのか解らなくて、不安でたまらなくなる」…

柏崎の、静かで それでいて鋭い刃先のような言葉は、
直己の心に突き刺さり、否が応でも直己を追い詰める。…

「そんな…僕は、そんなつもりじゃ・・」…

「それじゃ、今までにそういう事を経験した事はないのか?」…

「それは…・」
確かに、何度もそれらしい事を言われた事はあったが、
はっきりと、言葉で指摘されたのは 初めての事だった…


思えば…自分から想いを伝えた事もなければ、嫌だと言った事もない。
そして…仔猫をもらって下さい…そんな一言も言えなかった。
それが悔しいとか、悲しいとか…そんな事より、
それを柏崎に言われた…その事のほうが、直己の涙を誘う。…

「そうやって生きて行くのも君の自由だが、
本当に欲しいもの、したい事を、手に入れることは出来ないと思うよ。…

誰かに愛されたいのなら、その誰かに、愛していると伝えなさい。
愛していると…愛して欲しいと…自分の本当の心を言いなさい。
そうすれば君は…きっと誰より愛されて…誰より幸せになれる。」
 
言いながら柏崎は、自分の心を振り返る。
最初は、何となく気になって、少しだけ興味が湧いて…もう少し…そう思った。…

だが、そんな少しの想いが、柏崎の心の中で、
仔猫が日々成長するのと重なるように、いつの間にか大きく育って。…

出来る事なら、愛していると伝えたい…と、思った。
それでも、その言葉を口にしないのは、直己に一歩を踏み出させたい。
決して、嫌という言葉を口にしない直己に、本気で向き合って欲しかった。…

「……・・」
俯いて、黙り込んでしまった直己には、自分に注がれる柏崎の目が、
とても優しさに溢れている事に、気付くことも出来なかった。
そんな直己から、遥か海原に視線を戻して、柏崎は小さく息を吐くと…

「今まで世話になった君を、傷つけるような事を言ってしまったが、
私は、君と出会えた事を、とても幸せだったと思っているよ」…

海に向けて放った柏崎の声は、潮風に乗って流されてしまったのか
それとも溶けて消えてしまい、直己の耳に届かないのか……

「………」
相変わらず黙ったままの直己に、柏崎は最後の枷を外すように、…

「さて…リュウも待っているだろうから…そろそろ帰るとしようか」 
そう言って、徐に腰を上げかけた。 その時、俯いたままの直己がポツリと言った。…

「あなたは…・」  
その、直己の言葉に、柏崎はもう一度腰を下ろし直己に顔を向ける。…

「ん?」  …

「貴方は、僕が貴方を愛していると言ったら、僕を愛してくれるのですか。
ずっと、貴方の側にいたい。 そう言ったら、一生僕を側においてくれるのですか。
…僕は男で、貴方も男だから…そんな事は出来ないでしょう。
でも、貴方が言えと言うから、僕は自分の本当の気持ちを言います。…

僕は…貴方が好きです…ずっと貴方の側にいたい。
毎日マンションに行くのも、今はリュウの世話が理由なんかじゃない。
…貴方の匂いのする、あの部屋に行きたいから…貴方を感じたいから、
貴方に会いたいから…無理と解っていても、貴方に愛して欲しい。…

僕は、ずっとずっと…貴方だけを愛して…貴方だけに愛されたい。
そんな僕の気持ちも知らないで…貴方は残酷です」
俯いたまま、吐き出すように言った直己の言葉に、柏崎の顔に笑みが浮かんだ。…

「やっと言ったな。 初めて聞いた君の本当の心からの声だ」
嬉しそうな柏崎の声に、直己が驚いたように顔をあげた。…

「え?…」
柏崎を見つめた瞳は涙に溢れて…それでも、じっと見つめる直己の瞳に、
柏崎の嬉しそうな笑顔と、直己に向かって伸びた指先が映り
そして…その指先は、頬を濡らす涙を拭うと、そっと唇に触れた。…

「君に残酷な事を強いた…と言うのなら、
私も、自分の正直な気持ちを、君に伝える事にしよう。
私は…君を愛している…リュウのように、君をいつも私の側に置きたい。…

一生何処へも行けないように、リュウとお揃いの首輪をはめて、
鎖で私の側に繋いでおきたい…そう思うほどだ。
私は男だが、それでも男の君を、心から愛しているよ」…

柏崎の言葉に、直己は嬉しいと思うより、ただ涙が溢れるだけで
その涙の意味を、言葉に変えることも出来なくて…
そして…柏崎の優しい声が問いかける。…

「どうかな…私は君より一回り以上も年上だが、
君は、そんな私の、恋人に…仔猫になってくれるのかな」…

「はい 」…

その返事は、相手に従う はい ではなく
自分の想いを込めた、直己にとって精一杯の意思表示。…

貴方と出会えて…貴方を愛して…貴方に愛されて…幸せです…と
直己はその為に、想いの全てを込めて はい! と答えた。…

                   End


柏崎はこの後、鈴のついた首輪を、直己にプレゼントしたんだろうな〜
革かな…鎖? それともサテン? 鈴は当然18金だよな、良い音で鳴るし…
などと、妄想しながら…終わりです。