手のひらに君をつつんで

毎日の通勤電車   楠本隆(くすもとたかし) 27歳

毎日決まった位置に立って電車を待ち、決まったドアから乗り込む。
それは、おおかたの人も同じようで、なんとなく見慣れた顔が並んでしまうのも、当然なのかも知れない。
だからと言って、特に言葉を交わす訳でもないし、どうという事でもないのだが、
ただいつもと同じ、その事になぜか安心する。 楠本隆も、そんなサラリーマンの中の一人だった。

楠本が、毎朝乗り込む車内においても、それは変わる事が無く、立つ位置も同じ、
目の前に座っている少し寂しくなった頭も、明るく染めた長い髪も、寝起きの曲をつけた頭も、いつもと同じ。
そのせいか、車内の押し競饅頭さえも、馴染んだ温もりに思えた。

それでも時として異分子?が入り込み、その空間に変化を齎す日もある。
どうやら今日がその日らしく、朝から草臥れているサラリーマンの中にあって、
幾つかのグループに分かれた高校生と思われる一団が、
元気な声で、ピーチクパーチクと囀っているのが、なぜか新鮮に感じられた。
嘗ては自分も、彼らと同じように当たり構わず自分たちの空間を形成していたのだろう。
そう思うと楠本は、今の自分が酷く年寄りじみているような気がした。

その元気な彼らのおかげで、今日の楠本の定位地は、いつもより奥まで
連結ドアの側まで押されてしまい、大分ずれるはめになってしまった。
いつも目の下にある簾気味の頭に代わって、今鼻の先にあるのは…。
シャンプーの香りを漂わせた、つるつるのさらさらヘアー。
電車が揺れる度に体ごと頭も揺れ…毛先が楠本の頬を撫でる。

朝洗ってきたのかな? 良い匂いだ。 砂糖入りのホットミルクのような…甘い匂い。
楠本は、出掛けに飲んできたそれを ふと思い出した。

牛乳の好きな楠本は、パンには必ず牛乳をチンして呑む事にしている。 それも砂糖を入れて…。
味もそうだが、あの甘い香りが何とも言えず、それだけで幸せな気分になるからだ。
だが、男が砂糖入りの甘いミルクが好きだなんて、そんな事は恥ずかしくて人には言えないし、
勿論外では、間違っても飲んだりしない。 
だからその分、家ではパンにはホットミルク。 喉が渇いたら水…と、決まっていた。

その大好きな香りが、鼻先にあるのだから…
自分でも気付かぬうちに…自然と ふんふん、くんくん・・まるで犬さながら。
匂いに誘われた訳ではないが、そう思って意識すると、その人物の事が、気になりだすから不思議だ。

結構背が高いんだな…170はあるのかな?
いや、ヒールの高い靴を履いているのだとしたら、もう少し低いか。 それでも小さくはない。
ごく自然に見える、若干グリーンがかった色の薄いサラサラヘアもポイントが高い。
ちょっと俯き加減になった時の首筋のあたりが、妙に色っぽく…これはお近づきになりたいかも。
等と不埒な事を考えてしまうのも、異分子によって齎された変化の賜物なのかも知れない。

変化…そう、空間の変化は楠本の内にも、小さな変化を齎そうとしていた。
ピッタリと密着している胸に、腹に、下半身に、確実に人の体温が伝わってくる。
いつもは、自分の前は座席に座っている人だから、人の体温は背中にあった。
それが今日は…甘い香りと、熱い人の熱。 
それに誘われるように、ぞわぞわと、内側から何かが蠢くような感覚に、ちょっと…ヤバイかも…。
楠本は、ふ〜と大きく息を吐き出すと、意識を逸らそうと顔を上に向けた。

いつもなら目に付く中刷りも見当たらず…路線地図も無い。
それに…この辺りから益々混んでくるのは、毎日の事で充分判っていた。
あと5駅ほどで乗り換えだから、それまで出来るだけ腰を引いて密着するのを防ごう。
頭では、そんな事を必死で考えているのに、身体は反対に熱が、血液が…中心に向かって走り出す。

ヤバイ! 勃っちまった。 こうなったらもう、余程の事がないかぎり間違っても縮まない?
うぅぅ…腰を退いて、かの人に悟られないように…くっつかないように…。
なのに、後から押され、どうしても当たってしまう。
ぴったりと…相手の腰?というか背中?というか…とにかく完全に密着。
なんか…気持ち良い…。 もっと押し当てたい…痴漢の気持ちが解ったような気がした。



  毎日の通勤電車  三矢湖杜(みつやこと) 20歳


親に逆らう為に進学した大学も、半年で退学してしまい、怒った母親に家を叩き出されそうになって、
それでも、精一杯の抵抗をみせ選んだのが美容師になること。

湖杜の家は、祖母の代から小さな理容店をやっていたから、
当然のように、親からは理容師になる事を進められた。

床屋なんて嫌だ…俺はもっとクリエーティブな仕事がしたい、
そう言った湖杜に、「それじゃ、何になるつもりなんだい?」  そう聞かれて返事に窮した。
それでも、「これから見つける」 そんな大見得をきって大学に進学したが、結局やめてしまった。

正直理容師が嫌いかと言えば、別に嫌いではない。
子供の頃から両親の側で、理容師の仕事を見てきたが、
散髪が終わって見違えるようになって帰っていく客を見ると、子供心にも、
お父さんとお母さんは凄いや。そう思い、両親の事を尊敬?した頃もあった。

だが、成長するにつれ、若者は男でも美容院に行く事を知った。
中学ぐらいになると、友達の中にも 「床屋なんてダサイよ」 などと言う輩もいて、
何となく理容師はかっこ悪い…そんなふうに思うようになった。
そして、最後の抵抗で通い始めた、美容師の専門学校。

毎日乗る電車は、乗る時はまだ空いているが、何駅か通過する頃には満員になる。
湖杜の立つ位置は、車両の端連結ドアの側と決まっていた。
どちらかと言えば、そんなに大きい方ではない湖杜は、人の間に挟まれるのが嫌いだった。
人はいろんな臭いがする。化粧の匂い、整髪料の匂い…はたまた体臭…。
それらに押しつぶされない為に、連結ドアは湖杜を半面だけでも守ってくれた。

そしてある日、自分と同じように定位置を確保している一人の男がいる事に気がついた。
男は人混みの中でも一際背が高く、そのせいで最初に目に付いたのが、
その男の頭…と言うより髪だった。
寝癖で纏まった髪が、アンテナのように立ち、つり革に触れるたびに、ビヨヨ〜ンと弾む。

その様がなんとも可笑しく思え…何だ? あれ…妖怪アンテナか? 
あんたさぁ…寝癖ぐらい治せよ.,結構良い顔してんだからさ。
一瞬そんな事を思い…それから何となく、その男に目が行くようになった。

折角形良く刈った髪が、時々ぼさぼさとしているのは、寝坊でもしたのか?
シャツは結構カラーが多いな…ネクタイは…等と観察している自分にちょっと驚く。
そして、その日は…どういう訳か、電車はいつもより早い時間に満員状態になり、
男の定位置がずれて、奥のほうまで進入してきた。

ヤベェ…直ぐ隣に来ちまったよ。 やっぱでかいな、185はありそう。
男に背中を向け、いつもよりドアにくっついていても、何となく背中に意識が集中してしまう。
あっ! 背中があいつに…そう思った時、自分の心臓の音が聞こえた。

なんで俺、こんな緊張しているの? 混んでくるといつもの事じゃないか。
それでも、あいつだと思うと…なぜか妙に意識して身体が強張る。
強張る? ん? なに? 何か当たる。 ムニュっと弾力のあるものが、腰の辺りに…あたる。
ゲッ!まさか…。でも、後にいるのは…って事は…あいつの○○○?
おい! 電車の中で男にくっついて、○○○おっ立たせてんじゃねぇよ…変態、スケベ…エロ親父!

心の中で散々喚いても、腰にあたるそれはますます硬くなって?
最初のうちは出来るだけ触らないように、努力?していたようだが、混んでくると、そうもいかないようで。
ピッタリと押し付けてきて、その時後ろからニュッと腕が伸びて、湖杜の横のドアにその手を付いた。
どうやらそうする事で、自分の身体が湖杜に密着するのを防ごうとしているらしい。

へぇ〜 一応、自分の状態は認識しているんだ…。
わっ、身体がデカいから手もデカい。腕も長いし指も…。爪…きれいに切ってあるんだ。
でもさ、この体制って…俺があんたに守られている…そんなふうにも見えるじゃないか。
安心できる腕の中、なんて…そんな気になって、俺まで変な気になっちまうじゃないか。
責任取れんのかよ…お兄さん。



  不可抗力なんです!!


楠本は両腕を踏ん張って、出来るだけかの人に触れないようにと頑張る。
だが、上半身は何とかなるが、腰は良くない…もぞもぞ動くと益々いきり立つからだ。
今日ほど自分が男であることを呪った日はないような気がした。
今にも 「痴漢です!!」 なんて、大声で言われそうな気がして、気が気ではなく、
その時の場面を想像すると、頭の中が真っ白になってくる。

はぁ〜 後二駅…何とか騒がないで下さい。不力可抗なんです…勘弁して下さい。
そんな事ばかり考えていたから、自分の下半身にそっと伸びた手に気付かなかった。
やんわりと内腿を撫でる手が、何度か往復すると確実に上に這っていく。
その時になって…えっ? 痴漢? 楠本はそう思った。

辺りを見回しても、女性と思しき人物は楠本の前にいるかの人だけで、他には見当たらない。
まさか、男に触る変態がいるとは思えないから、
多分前にいる女性を触るつもりなのだろうと、楠本は勝手に解釈した。

なんて奴だ、混んでいるのを幸いと女性にこんな悪戯をするなんて許せない。
自分の股間は不可抗力で、意識的に押し付けているわけでは無い。
そんな都合の良い言い訳を反復しながら、手の動きに意識が集中させる。
そして考えた…この手に自分のものを押し付けたら、びっくりして止めるのでは…。
そう思うと、それがとても良い考えのように思えた。(ただのバカです。気にしないでください)

だが…さわさわ、さわさわ、微妙な指の動きが、楠本の前にいる女性を触っているにしてはリアルすぎて、
まるで楠本の腿の感触を確かめているかのようにも思えた。
やがて太ももを這いずる手は上に上がり…楠本のジュニアをそっと撫でる。

えっ? まさか…撫でた? 俺の○○○…を
そうなると、押し付けてやろうなどと言う考えは、頭からぶっ飛んで、
やべっ! こいつ、男を触る痴漢かよ。止めろ!!

男に触られるなんて、気持ち悪! 気持ち…悪…わる……・悪くもない…。
一層有り難くもっと触ってもらいたい…等と思ってしまう程、
楠本の股間は、完全にスタンバイ状態で…ちょっと、腰動かそうかな…。
今度は自分の快楽の為に、その手に股間を押し付けたい衝動にかられた。

挙句に…出来れば中に手を入れて…直接タッチ…なんて馬鹿な考えが頭の中を駆け巡り。
楠本は、自分がただの変態男に成り下がっている事にも気付いていなかった。


そして湖杜は…ちょっとからかうつもりで、後に立つ男の太ももに手を伸ばした。
なのに…布越しの締まった筋肉に、触れた指先から電気が走ったような気がした。
そして、こんな太ももの上に、どんなものが下がっているのか、ちょっとだけ確かめたい。
それでも…いきなり手を掴まえられたら、逃げられない…そう思い、少しだけ動きを止めていると、
気のせいか、手に押し付けてくるような…。

こいつ…マジ変態。男だぞ触っているの…でも、俺も同じようなもんか。
それならそれで…ちょっとだけ…とばかりに指先で形をなぞると、布の分を差し引いても、
かなりの質量があることが判った。

うわっ! でけぇ!!立派。 いいなぁ…こんなの欲しい。
ズボン越しに丁寧に形をなぞり、括れまで確認すると、指と掌を使ってやんわりと揉み扱く。
気のせいか、耳元に粗い息づかいさえ感じるような気がして、
熱く滾り、ドクドクと脈打つこれに…生に触りたい…そう思った…が、
やべっ! もう、乗換えだ。長さ、太さ、硬さ…申し分ないのに…惜しいな。そうだ!痴漢にしちゃえ……。

少し、いや大分中途半端だが、しょうがないだろう。 それでも今日は良い日だったな。
名残惜しいが、この手ともお別れだ、また機会があったら続きをお願いします。
乗り換えの駅が近づき…楠本が、袋の辺りを弄っている手に、
心の中で、そんなバカな感謝の意を伝えていた時、突然脳天に突き抜ける痛みに襲われ。

ギェーーー!!
思わず太ももをギュッと閉じた…閉めたのに…手は、太ももの間に挟まったままで、
その手の中には楠本の大切な袋が、しっかりと握られていて…。かの人が振り返る。
そして、可愛い顔に悪魔のような笑みを浮べ…男の声で言った。
「次降りるよ…」
それでもやはり、その顔は女の子より可愛い顔をしていた。


湖杜に背広の袖を捕まれ、ホームに下りた楠本は…歩き方がどうにも不自然になる。
なにせ、男にとって一番の急所を握られたのだから致し方ないだろう…が。
【どうせ握るなら、棹にしてくれりゃ良いのに…とんでもない事をしてくれる】
心の中でそう思っても、そんな事は口が裂けても言えるわけもなかった。

乗り換えだから、降りなくてはならなかったのだが、乗換えの電車になど乗れそうもなく、
内股ぎみの歩きで湖杜に引かれるまま、すごすごとホームの階段に向かいながら、
これで、自分の将来も終わった…楠本はそう思った。

でかでかと『商社マン、美少年?に痴漢行為で逮捕』 の見出しと一緒に、母親の泣き顔が浮かんだ。
掴んだ手を振り払い、人混みを蹴散らして逃げようか…とも思ったが。
湖杜がしっかり…「逃げたら、叫ぶよ…」 そう言って脅すから逃げる事も叶わず。
それに、公序良俗に反する現象?は、不可抗力でも言い訳にはならない。
今更逃げても…そんな諦めもあって、

「すみませんでした…詫びて済むとは思っていませんが…本当に申し訳ありませんでした」
楠本は、袖を捕まれたまま平身低頭さながらに頭をさげた。
すると、可愛い顔に悪魔の笑みの湖杜が、今度は可愛い顔に可愛い笑みを浮かべ、
「悪かったと思っているんだ」  なぜか楽しそうに言った。

「はい、大変不愉快な思いをさせてしまったと心から反省しています」
口で言いながら楠本の頭の中では、不可抗力の文字がリフレインする。
だが、笑みを浮かべたままの湖杜は、しっかりと楠本の背広の袖を握ったままで。
気のせいか、この状況を楽しんでいるようにも見えた。そして、楠本が半分予想していた言葉を吐いた。