01 罰にも勝る君の笑顔に

罰にも勝る君の笑顔に    保坂 穂(みのり)

人生の、折り返し地点も間近になったこの年になって、妻から別ればなしを持ち出されるとは 思ってもいなかった。
「何が不満なんだ 理由を言ってくれないか?」  それに対して妻は
「人生をやり直したいの。 今を逃したら もうやり直せないと思うから…お願いです 別れて下さい」 そう言った。
保坂と妻は、お互い同じ大学で知り合い、交際し始め…保坂の卒業と同時に二人は結婚した。
勿論、若すぎるという事で、双方の親からは反対はされたが、
その反対を説き伏せるだけの熱意と、互いへの愛情は持っていた。
だから…賛成とまではいかなくとも、一歳年下だった彼女が卒業するまでは、
親元で暮らすという条件で、どうにか認めてもらうと、彼女はそのまま大学に通い。
保坂より一年遅れで社会に出て、初めて二人で暮らし始めた。 そして、その一年後に娘を出産した。

若い二人にとって子供を抱えての暮らしは楽ではなかったが、それでも親子三人幸せだった……保坂はそう信じて疑わなかった。
なのに……私と過ごした年月は 妻にとって やり直さなければならない月日だったと言うのか。
取り立てて悪い 夫だったとは思えない。贅沢出来るほど裕福ではないが 世間並みの暮らしはできた。
ローンでマイホームのマンションも購入した。ギャンブルをするでもなく 浮気をした訳でもない。
それなのに何が悪かったというのか。保坂にはどうしても妻の心が理解できなかった。

「やり直したい」その一点張りで話し合いにもならず、
保坂は とりあえず別居する事で暫くく様子をみようと提案するのが精一杯だった。
家を出ると言う妻を引きとめ 代わりに自分が家を出た。
今年高校に入学した娘は 両親の別居になんの異も唱えなかった。

ワンルームのアパートを借り そこが保坂の住まいとなって一年が過ぎようとしていた。
家事などした事もない保坂にとって 炊事洗濯は仕事をするより保坂を疲れさせた。 
かといって 外食ばかりでは経済的に厳しい。
なにしろ マンションのローンとアパートの家賃だけでも けっこう負担が大きかった。
妻は仕事をしていたので、自分たち母子の生活費はいらないといったが、娘の教育費だけは父親の義務として負担しなければ。
そう思い、毎月妻宛に送金していた。正直、余裕などほとんど無いに等しかった。
どうしてこんな事になったのか…いくら考えても保坂にはわからなかった。

電車を降りると めっきりと冷たくなった風が背広の中にまで入り込んでくる。
保坂は ぶるっ と身震いをすると家に向かって歩き出した。
とにかく、少しでも早く帰ろう。そう思い足を速め、駅前の商店街が途切れるあたりにさしかかると、
空き腹をくすぐるように、やけにいい香りが漂ってきた。
見ると 小さな焼鳥屋があり 匂いはそこで焼く焼き鳥の匂いだと解った。
保坂は、その匂いに誘われるように、少しくたびれた藍色ののれんを潜った。

カウンターに腰を降ろすと 数本の焼き鳥と 焼酎を注文する。
今夜はこれが夕食になる。安酒と何本かの焼き鳥が、贅沢となっている現状だったにもかかわらず、
不思議と、みじめだとか、悲しいとか、寂しいとか、そんな様々な思いは浮かんでこなかった。
それらすべては、妻への、どうして? にかき消されしまっていたのが、保坂にとってせめてもの救いだったかもしれない。
何杯かの焼酎で 少し酔っていたのだろう。店を出て幾らも行かない所で足元がふらつき 誰かにぶつかってしまった。
まだ少年と思えるような男達が、三人で保坂を取り囲むと、
「怪我をした」「医者に行かなくては」そんな言葉を喚き立て、保坂の背広のポケットから、財布を取り出そうとした。
態の良い恐喝である。それに対し、必死で抵抗したのが悪かったのだろう。
少年達に路地に引きずり込まれ、その後はもう、殴る蹴るのされ放題となった。
『ひょっとしたら殺されるのか……』腹を抱え丸くなったまま、保坂はそんな事を思った。
そして 『あぁ本当に死ぬのか』 そう思った時、誰かの怒鳴り声が聞こえた。
どたばたとしていた物音が消え、辺りが静かになり……はるか頭の上から声が降ってきた。

  −出会い−

駅前のコンビニで夕飯の弁当と明日の朝食のパンとコーヒーを買うと、南晃亮は自分のアパートへと向かった。
いつもは深夜になる帰宅が、今日は久し振りに早く帰れ、
『今夜こそは、撮ったままで放ってあるビデオでも見よう』そう思いながら足を速めた。
そして商店街を抜け、はずれ近くまで来ると路地の奥のほうからなにやら物騒な物音のするのが耳に入った。
つい足を止めて暗がりを覗きこむ……と、ニ三人の男たちが、地べたに蹲ったサラリーマン風の男を殴る蹴るしていた。
『あぁ、やばいな。あのままじゃ怪我だけじゃ済まなくなる』頭に浮かぶと同時に、晃亮は男達に向かって大声で怒鳴りつけた。
晃亮にとって その辺の悪がきの二人や三人は物の数ではなかった。なにしろ 武道全部合わせたら十段近くなる。
だから 喧嘩はもちろん仲裁に入るのも、できれば避けたいというのが本音であった。
滅多に無い事だが はずみで相手に怪我をさせてしまう可能性も無いとは言えないからである。
だが今日の状況は、見過ごすには少しばかり危険な気がした。

人間にはいろんなタイプがいる。 
一時的にかっとしても すぐに平静を取り戻せる奴。 適当なところで興味?を失って止める奴。
おおかたの人間はその二通りのどちらかに当てはまるのだが、まれに 自分を抑制できずどんどん加速していく者もいる。
そうなると頭の中はなにも考えられず、相手の事はもちろん自分の事さえ見失って、ただひたすらその行為を継続する。
それに、数の原理では無いが よほどでなければ頭数には勝てない。一人ニ発殴っても 三人合わせると六発になる。
大概はそれだけ殴られると、たち向かっていく気持ちは無くなってしまうだろう。
「しょうがないな」晃亮は小さく呟くと、さっき買った弁当を道の端に置いた。

良く視るとまだ未成年と思われる彼等は、突然の怒鳴り声に一瞬たじろいだが、
晃亮が一人だと判ると 案の定いきなり殴りかかってきた。それを受け流し軽くあし払いをかける。
途端、男は勝手に扱けて地べたに転がった。それから、別の一人の腕を掴み、半分だけ捻り揚げる。
するとその男が顔に似合わない悲鳴をあげ、苦痛に顔を歪めて自分の肩を押さえた。
その背中をぽんと押してやると、やはり前にのめるようにして地面に転がった。
一人残っていた男は、その様子を見て晃亮に畏怖の目を向けるとそのまま背中を向けた。
そして、転がっていた男二人も慌てて立ち上がると、お決まりの捨て台詞を残し、転げるような勢いで走り去ってしまった。
そのあまりのあっけなさと逃げ足の速さに 半分口を開けて彼等を見送ると、晃亮は地面に丸くなっている男に近づき声をかけた。

「大丈夫ですか?」 屈みこみ、男を助け起こしてやると、男は顔を上げようともせずに「すみません…」  と言った。
なぐられた時口の中が切れたのだろう。口角から流れた血が赤い糸を引き、ワイシャツの襟元を赤くそめていた。
「あぁ 派手にやられましたね。 どうですか…立てますか?」
晃亮の問い掛けに、男はやはりうつむいたまま 「はい…」 と答えた。
だからと言ってすぐに立ち上がるでもなく、うな垂れて座ったまま。その様子に、晃亮は幾分心配になってきた。
『もしかしたらどこか怪我でもしていて 自分では立てないのかも知れない』 そう思ったからである。
手を伸ばし 男の頭 肩 腕 そして脚 それとなく動かして「どこか 痛みますか 」 まるで 医師の診察のように訪ねた。
「いいえ……」  
相変わらず俯いたまま抑揚の無い声で答える男に、晃亮は 男の顎に手をかけ顔を上させると、
男の焦点のあっていない瞳が、ぼんやりと晃亮を見つめていた。その空ろな瞳に向かい
「しっかりしてください。大丈夫ですよ、骨は何ともありませんから。家は近くですか? なんなら送りましょうか?」
晃亮はいくぶん強い口調で言った。その瞬間男の瞳がみるみる涙で潤み 溢れたそれは頬を伝って流れた。
晃亮の手まで濡らしなおも零れ落ちる涙に、一瞬なにが起きたのか晃亮には理解できなかった。
『泣かれるほどきつく言ったつもりはないのに、どうしたというのだ?』
そう思いながら、晃亮はただ目の前で泣く中年男を見つめていた。


温かい…保坂はそう思った。そして、その温かさに胸の中の何かが弾けた。
涙が溢れて止まらない。妻のこと、娘のこと。理解できない どうして? となぜ? そして今の自分。それらが全て涙に変わる。
温もりを伝える大きな手を自分の手で包み胸に抱くと、考えても解らなかったものが涙になって保坂の目から溢れ落ちた。

そして晃亮は、とうとう声をあげ、ただひたすら泣き続ける保坂の肩に手を置いた。
それが、保坂穂(みのり)と 南晃亮(晃亮)の出会いだった。


   −見知らぬ脚−

保坂は一頻り泣き続けると 今度は気持ちが悪いと言い出した。酒を呑んだ後 殴る蹴るされた上 ワァーワァー泣いたのだ。
保坂の涙でじっとりと湿った晃亮のスーツの袖に、追い打ちをかけるように今度はゲロまで吐いてしまった保坂は、
信じられない事に、ゲロまみれの晃亮にもたれて眠ってしまったのだ。
それには さすがの晃亮も、唖然と口を開いたまま閉じるのを忘れてしまうほどで、
それでも、何ともいえない気持ち良さそうな顔で眠る保坂が、なんともいえず可笑しく思え、暫くはその寝顔を見つめていた。
家も判らなければ 名前も知らない。そんな中年オヤジを 拾って帰ることになろうとは。
晃亮は諦めの笑みを浮かべると保坂を背負い、冷たくなった弁当を手に提げて、自分のアパートへ向かって歩き出した。


温かい…温かくて気持ちいい。こんな穏かな気もちは……。
保坂はその温もりに最近自分が感じる事のなかった安らぎを感じていた。
だがその安らぎは、いきなり腹の上に落ちた重さによって一瞬で吹き飛んでしまった。
そして 「グェ!」 変な声をもらし一機に覚醒した保坂の目の前には、またまた頭が真っ白になるような現実があった。
腹の上にあるのはひどく長い立派な脚。保坂の隣で布団から身体を半分はみだして気持ち良さそうに眠っている脚の持ち。
部屋の中は見た事も無い景色。『なんで? どうして? 此処は? それに 隣に寝ている男は一体誰?』
慌てて、それでも眠っている男を起こさないように、そっと脚を持ち主に戻すと布団から抜け出した……が。
『えっ? ズ、ズボン……は』。
保坂はパンツに ワイシャツという自分の姿にまたまた慌てて、着ていたはずのスーツを探したが何処にも見当たらなかった。
『どうしよう、このままじゃ帰れないじゃないか』
その時、ペタリと座り込んでいた保坂が、飛び上がるほどの勢いで玄関のドアが開いた。
「晃ちゃん! おっはよう!!」
飛び込んできたのは、二十歳を幾分過ぎているだろうと思われるにしては、ずいぶんと 可愛いらしい顔をした若者だった。
そしてその若者は保坂を見ると、「あっ! おっちゃん 起きたのか?」 と言ってにっこり笑った。
すると、今迄眠っていた男がむっくりと身体を起こし、えらく不機嫌そうな顔で。
「なんだよ……煩いな」  若者と保坂を交互に見てこれまた不機嫌な声で言った。
「なに言ってんだよ もう十時だぞ いつまで寝てるつもりなんだよ。おっちゃんは とっくに起きてるぞ。
晃ちゃんもさっさと起きて、朝飯作ってよ。俺、腹減った。おっちゃんも腹減ったって言ってるぞ」
青年からの思いがけない飛び火?に、保坂は ふるふると頭を振ると目の前で手まで振り
「い! いや、わ、私は……」 否定の言葉を続けようとしたその時、信じられない事に保坂の腹が ぐぅ〜と鳴った。

恥かしいやら、情けないやら。
その上若者二人に大笑いされて、保坂は身の置き所も無いといった様子で小さくなって俯いてしまい。
そんな保坂を、晃亮はちらりと横目で見ると、「しゃぁないな」 そう言いながら立ち上がった。
引き出しの中から自分のトレーナーと スウェットを取り出し、それを保坂の目の前にさしだすと、 「スーツは、クリーニングしないと着られないから、今日はこれで我慢して下さい。
俺のだから大きいと思うけどその格好でいるよりはましでしょう」と言ってにやっと笑った。
「あと、貴方の名前教えてもらえますか? 小学生からならともかく、俺らに、おじさんと呼ばれるのは嫌でしょう? 
俺は、南晃亮(こうすけ)、こいつは俺の友達で、隣に住んでいる北野真(まこと)
口のききかたも知らない奴だから、こいつの言うことは 気にしないでください。
でも 悪い奴じゃないのは確かだから…それは保障します」
そう言いながら布団をたたむと、それを押入れに押し込んだ。
確かにワイシャツにパンツ姿では身動きすらできない。それに寒い。
だから…今の状況も理由も理解出来ないまま、保坂はとりあえず晃亮が差し出した着替えに手を伸ばした。


   ―拾われたの?自分−

「あ、ありがとう……。私は保坂といいます。それで、あの……此処はどこですか? 私はどうして此処にいるのですか?」
保坂は晃亮から受け取ったスウェットを膝の上に置き、恐る恐るといった様子で尋ねる。すると晃亮が、幾分困ったような顔をし、
「やっぱり 覚えていませんか…」 と言って徐に保坂の正面に向き合うようにして座った。 
保坂より一回りも大きい晃亮が、きちんと正座をして保坂と向き合う。それが、何となく保坂を不安にさせた。

正直保坂は、昨夜焼き鳥やを出てからの事が記憶になかった。店で焼酎を呑んだのが、悪かったのかも知れない。
あまり酒の強くない保坂は、いつもビールを少し飲んだだけで出来上がってしまう。
それなのに昨夜は、なぜか焼酎を何杯もおかわりしてしまい、店を出た時には完全に泥酔に近い状態だった。
そのせいかどうか……今朝は身体中が痛い。もしかしたら、酔っ払って転んでしまったのだろうか。
どちらにしろ記憶がないのだからどうしようもなく。保坂は益々不安そうな顔で、晃亮を見つめた。
「あの、覚えてないって……どういう事ですか? 私は……」 
「保坂さん。昨夜貴方は、若い男たち三人に絡まれて殴られたんですよ。鏡を見たら判ると思うけど、顔も結構腫れています。
多分、身体もあちこち痛むんじゃないですか? それと、貴方が着ていたスーツもひどく汚れていました。
洗わないと着られないと思います。だから、今日は静かにして休んでいたほうがいいですよ。
後で俺が、お宅まで送りますから、とりあえずは腹の虫だけでも大人しくさせましょう」晃亮は笑いながらそういうと、
「それじゃ、朝飯にしますから、少しだけ待ってください」保坂が何かを言う前に立ち上がりキッチンのほうへ行ってしまった。

晃亮の話では、自分は暴漢?に襲われたらしいが、その事はは保坂の記憶には無かった。
だが、それが事実ならば自分は晃亮に助けてもらった。だから今此処にいる。そういう事なのだろう。
確かに言われてみると……何となく顔の感覚がいつもと違う気がした。
だから、洗面所を借りて顔を洗おうと鏡に向かったら……其処に写っていたのは自分の顔とは思えない程腫れて歪んだ顔。
「あぁ…見にくいと思ったら、目が半分塞がっていたからか。それに口も。ひどいな、こんな顔初めて見る」
保坂は、まるで人事のようにそんな事を言いながら、鏡に映った自分の顔を見つめた。
さすがに 触ると痛いので、適当に顔を洗い うがいをしておわりにする。
そして、心の中で反復する。『大きいほうの若者が南晃亮君で……可愛いほうが北野真君』
保坂は、自分の顔の腫れより、なぜかそっちの方が大事なような気がした。

晃亮がキッチンで朝飯兼昼飯を作っている間も保坂はする事もなく。そうかと言って、家に帰ろうにも服が無い
。 何ともいえず手持ち無沙汰で居心地が悪く。それに、殴られたと判ったら、途端に身体中が痛むような気がしていた。
そのせいでか、自然とうな垂れてしまう。そんな保坂に、屈託の顔で北野真が話しかけてきた。 「昨夜、晃ちゃんはおっちゃんを負ぶって帰ってきたんだよ。そん時 晃ちゃんの背広の袖がはゲロだらけでさ。
おっちゃんは ちゃんの背中で気持ち良さそうに、ぐうぐう寝てたんだぜ。
晃ちゃんの背広をゲロだらけにしたのに怒らなかったって事は、多分晃ちゃんはおっちゃんの事を見捨てられなかったんだな。
晃ちゃんは、喧嘩も半端なく強いけど、その何倍も優しいからさ。
良かったよな、晃ちゃんに拾ってもらって。おっちゃんは、最高についてたよ」

真の言った言葉で、保坂は記憶に無い自分の醜態を初めて他人から聞かされた。
同時に、何がついていたのか解らないが、通りかかったのが晃亮だったからこの程度の怪我で済んだ。
おそらく、そういう意味なのだろうと思った……が、思わず問い返した。 「私は……拾ってもらったの?」
「うん、晃ちゃんはそう言っていた。俺が、どうしたの? って聞いたら、「拾った」って」 真は、何の躊躇いもなく言い。
「……。拾った……ですか。その上私は、彼のスーツも汚したのですか」
保坂は恥ずかしいというより、情けない…そんな気持ちで声まで情けなくなった。だが、
「うん 晃ちゃんの一帳羅」  真はさらに、普通なら言いにくい事までも付け加えてくれた。

記憶に無いとはいえ、そんな迷惑までかけていたとは思いもしなかった。
そういえば、ひどく気分が悪かったような気がする。だがそれとは別に、なにか、とても温かいものにふれたような。
ぼんやりと霞がかったような記憶の中で、微かに覚えている温もり。あれはなんだったのか。保坂はなぜかその事が気になった。

  ―二人の若者−

「真! くだらない事ばかり言ってないで、茶碗ぐらい出せよ! あと魚が焼きあがっているから、皿に入れて持って来いよな。
全く……お前さ、俺ん家で飯食うの、いい加減やめたらどうなんだ?」
晃亮が鍋を片手に、テーブルの上を拭きながら真に言うのを聞いて、保坂は慌てて晃亮の手から布巾を取ろうとした。
そして、微かにふれた指先に何かを思い出しそうな気がして、おもわず晃亮の顔を見つめてしまった。
笑うと少しだけ少年っぽさを残した、晃亮の顔に記憶はない。それでも一瞬ふれた指先は、確かに何かを覚えているような気がした。
「あの…南君。 君には、危ないところを助けてもらったようで、ありがとう御座いました。
それと……なんだか、ひどい迷惑をかけたようですね。本当に申し訳ありませんでした。私が汚した君のスーツは、弁償させてください」 ある程度の成り行きが解ってくると、自分が晃亮に大いに世話になったという事と、大変な迷惑をかけた。
その事実に驚きながらも、保坂は晃亮に対する感謝と詫びの気持ちを口にした。
「あぁ、そんな事気にしなくていいですよ。それより、お家の方が心配しているんじゃないですか?
昨夜は連絡できなかったから、今からでも連絡されたほうがいいですよ」
そう言って晃亮は、持っていた鍋をテーブルの上に置くと、ボードの上に置いてあった携帯を保坂に差し出した。

確かに、以前の保坂なら 何を置いても家族の事を 真っ先に考えただろう。だが今の保坂には、保坂の帰りを待っている家族は居ない。
それに、たとえ連絡をしても、妻や娘が自分の事を心配してくれるとは思えなかった。だから、
「ありがとう。でも、良いんです。私は、今は一人だから。気を使わせてすみませんね」
なぜか…すんなりと、自分が一人だと言えた。
あれほど拘っていた家族との事が、不思議と、たいした事ではないような気さえしていた。

小さなテーブルに三人分の食器が並ぶと、それだけでいっぱいになった。
魚は鮭の切り身。大振りの鉢には納豆が入っていて、そこに刻んだネギが山盛りに載っていた。
あとは、蓮とアスパラのサラダだか和え物だか判らない物。
並ぶ料理の品数も、見てくれも、たいした物ではないのに、久しぶりに食卓を囲む。そんな気がした。
茶碗で湯気をたてている、ご飯と味噌汁。 それは、保坂がもう一年も口にしていない朝食だった。
「おっちゃん、早く食べないと冷めちゃうぞ。晃ちゃんの作った味噌汁は美味いんだぜ。だから、熱いうちに食べなよ。
納豆載せるんだったら、飯は一口喰ってからにしたほうがいいぞ」 真が、納豆をご飯の上に山盛りに載せ、笑いながら言う。
それを見ながら、納豆を載せるのにそんな事を言われたのは初めてだな……等と思うと、
それだけ、胸の中がほんわりと温かくなるような気がした。

「あ、ありがとう。 それじゃ、いただきます」  
箸を取り、味噌汁の椀に手を伸ばす。すると真が、山盛りのご飯にかぶりつきながら、 「おっちゃん、一杯喰いなよ。おっちゃんは細っこいから、一杯喰って少し太ったほうがいいよ」
まるで自分の作った食事のように、ご飯で頬を膨らませそんな事を言う。
その顔が、まるで小さな子供のように見えて、保坂の顔が自然と綻び。手に持った味噌汁を一口すする…と、
「イタッ……」  保坂は思わず顔をしかめた。すると晃亮までもが、
「あっ! 傷にしみるんでしたね。 俺、全然考えてなかった。 すいません」自分の落ち度のように恐縮するのが可笑しくて。
保坂は、思わず笑いながら、「大丈夫…君のせいじゃないよ。それにこの味噌汁、とても美味しい」
そう言って、今度はゆっくりと味噌汁を啜った。

本当に美味しいと思った。正直妻の作った味噌汁が、どんな味だったのか思い出せなかったが、
それでも、この味噌汁のように美味しいと思った記憶はないような気がした。
「だろう? ほんと、晃ちゃんの味噌汁は最高だよ」
真が、我が意を得たりとばかりに大いに誉めそやすと、晃亮は、それが照れくさいのか必要以上に憮然とした顔で言った。
「真 口一杯にほお張って喋るのを止めなよ、零れるだろう。それにお前、ほっぺたに飯粒ついてるし。行儀悪いだろう、黙って喰えよ」 「え? なんだよ。 晃ちゃんだって、いっつ〜喋ってるじゃないか。
それに、いつもはそんな事うるさく言わないのに、おっちゃんの前だからって格好つけてさ」 途端に 晃亮が微妙に慌て顔で、
「べ! 別に、格好付けているわけじゃないよ。
俺は、そういうのに慣れているけど、知らない人は汚いと思うかも知れないだろう?」 やんわりと同意を求める……と
「ああ、そうか。そうだよな。俺と晃ちゃんは、チューする仲だもんな。
でも、おっちゃんは、今日初めて俺等と飯食うんだった。うん、俺が悪かったよ」
途端、ぶふぁーー 晃亮と保坂が、同時に口の中の物を吹きだした。




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