「なぁ…お前は、俺の何処が良いんだ?」
情事の後の気だるい身体もそのままに、秦野尚は顔だけを西崎に向けて聞いた。
すると西崎が、既に身支度を整えネクタイを絞ろうとしていた手を止め。
秦野の寝ているベッドに近づくとその端に尻を乗せた。
それからゆっくりと手を伸ばし、秦野の乱れた髪を指で梳くように撫でる。そして、
「さぁ…何処だと思います?」
言いながら、西崎は秦野の髪にそっと唇を押し当てた。
西崎の首筋が目の前にあり、西崎の匂いが鼻から忍び込む。その匂いに鼻の奥がジンと痛むような気がして、
「聞いているのは、俺なんだけど」
秦野はムスッとした声で言うと、西崎の手と匂いから逃れるように顔を反対側に向けた。
髪を撫でられるのは、あまり好きではなかった。それなのに、西崎の手は優しいから…今はそれが心地良い。
心地よくて、切なさまでも運んできて。それは胸の中で一杯になり何かに変わりそうになる。
だから、いつもそれを追い払うようにつっけんどんな態度をとった。それなのに西崎は、
「じゃぁ、尚さんは答えられますか。俺の何処が良いのか」
答えとは反対に、同じ事を秦野に問いかけた。【だから、聞いているのは俺だって…】そう思いながら、
「そりゃ…決まっているだろう。身体。それ以外に無いだろう」
秦野の口は自分でも思ってもいない台詞を吐く。すると、髪を撫でていた西崎の手が一瞬だけ止まり、
「………。身体ですか。それじゃ俺も尚さんの身体。これでお相子です」
そう言うとクスクス笑いながら身体を伸ばし、反対を向いていた秦野の頬に唇を押し当てた。
「尚さん。俺、今度の連休は実家に行って来ます。
だから一週間ほど会えなくなるけど、ご飯食だけは、きちんと食べるようにして下さいよ」
髪を撫でながら言う西崎の視線は窓の外…秦野はそれに気付かない振りで。
「バカ野郎…飯なんか、いつだってちゃんと食ってるよ」
煩そうな口調で言いながら西崎に向けた背中を硬くする。
だが西崎はそんな秦野を気にした様子も無く、やはり笑みを含ませた声で、
「そうですか? 俺が来ると、いつもカップ麺やら何やらの容器が山積みになっているじゃないですか。
あんなものばかり食べていたら、そのうち身体を壊しますよ。ちゃんと自分で作って……」
まるで世話女房みたいな事を言う。本当は、それが可笑しかったり少しだけ嬉しかったりするのだが、
それを悟られてはいけない。甘えてはいけない。俺たちはそんな関係では……ない。
秦野は心の中で呟きながら、邪険に西崎の手を振り払った。
「あぁ、もう良い。解ったからさっさと行けよ。これからまだ仕事があるんだろう? 俺はもう少し寝る」
「はい、解りました。それじゃ、実家から帰ったら直ぐ電話しますから」
言いながら背広を羽織った西崎の背中がドアに向かい、部屋から消える寸前。その背中に向かって、
「あぁ…気をつけて行けよ。隆……今までありがとうな」
声に出さず呟くと、西崎の背中がぼやけて揺らぎ…秦野は、それを誤魔化すように枕に顔を押し付けた。
秦野が西崎と初めて顔を合わせたのは、たまに顔を出す店で秦野の隣の席に座った客。それが西崎だった。
客は男だけというその店で、相性の良さそうな相手を見つけては一夜を共に過ごす。
誰か一人と長く付き合う。そんな事は思ってもいなければ思いたくも無かった。
あんな想いは、二度と御免だ。必要な時だけ相手をしてもらえばそれで良い。そう思っていたのに、
どういう訳か西崎との情事は回を重ねて、今では西崎以外の男を相手にしようとは思わなくなっていた。
そして…西崎が親に見合いを勧められていると、秦野に告げたのは一月ほど前の事だった。
今年28歳の西崎には、特に早い結婚話と言う訳でもなく、所帯を持つことで信用も得られ仕事にも打ち込める。
親がそう考えたのも当然の事で、秦野は自分がどうこう言う事ではないと思った。だから…。
「見合い? 良いんじゃないか、するだけしてみても。それで気に入らかったら断れば良いし、
気に入ったらそのまま結婚。そういうのも有りなんじゃないか」
秦野はそう答えた。すると西崎が彼には珍しく少し怒ったような声で、
「良いんですか! 俺が見合いをしても」
そう言うと後は暫く押し黙ったままでいたが、その後は見合い話とは別の話を始めた。
良いも悪いも…他に何が言えるんだよ。人の気も知らないで、バカヤロー。秦野は心の中でぼやきながら、
心の片隅に潜むたったひとつの言葉を口にする事も出来ず、何となく気まずい雰囲気を払うようにそっと身体を寄せた。
そしてそれっきり、西崎の見合いの話は二人の間で話題に乗ることはなかった。
一夜のつもりが幾夜も肌を重ね、そのせいで情が芽生えたのだとしたら…その先が見えるような気がした。
だから、戻れなくなる前に。執着する前に…縋りたくなる前に…この関係を絶つ為に。
西崎の結婚は一番良い方法…秦野はそう思った。
「随分とご無沙汰でしたね。最近、ちっとも顔を見せないから、良い人でも出来たのかと思っていました」
行きつけの店のマスターが、秦野の顔を見ると笑いながら言った。
此処は西崎と初めて顔を合わせた店。そしてその夜、いつものように軽い気持ちで西崎と一夜を過ごした。
あれから、その一夜を何度重ねたのだろう。そう考えた時、この店に顔を出すのはあの日以来のような気もした。
「あぁ、ちょっと忙しくて…」
「そうですか。そう言えば少しお疲れのようですね。たまには世事から離れてのんびりされるのも良いですよ。
でもまぁ、仕事を持つ身ではそうも出来ないというのが辛いところですが…。で? 今日はどうされます?」
マスターは、琥珀色の液体の入ったグラスを秦野の前に置くと、ちょっとだけ首を傾げる仕草をした。
その意味を半分は理解していながら、秦野は素知らぬ顔で聞き返す。
「どうするって?」
「誰か相手を…そう思っているのでしたら良い子がいますけど。可愛いし性格も素直で、とっても良い子ですよ。
多分、尚さんのタイプだと思います。まだ大学生ですが、出来たら少し年上の後腐れのない人を紹介して欲しい。
そう頼まれましてね。どうですか? お互いぴったりの組み合わせだと思いますけど」
以前の自分と全く同じ事を…と思いながら、なぜかその事が妙に勘に触るというか、面白くないというか。
そして、そんな気持ちになった自分が自分でも理解できなった。
「後腐れ無くね。一晩だけの処理屋を求むって事か。悪いけど今夜は飲みに来ただけだからさ。
誰か他に声かけてやってよ。相手を探している奴もいるんだろう?」
秦野が言うと、マスターは少し意外そうな顔をし。それからなぜか残念そうな口ぶりで言った。
「それはまぁ、尚さんがそう言われるのでしたらそうしますが」
そして、他の客の飲み物を作り始めた。
店の中の顔は相変わらず男、男、男。興じる者もいれば、黙ってグラスを傾ける者もいる。
見慣れているはずなのに、今日だけは理から外れた者の寂寥を感じて、秦野は大きく息を吐き出すとポケットに手を入れた。
西崎が実家に帰って今日で五日になる。その間何度も取り出しては眺めた携帯を、またも取り出し履歴を確認する。
だが、西崎からの着信は一度も無かった。そしてその事実は、判ってはいてもやはり秦野を少しばかり落ち込ませた。
いつもは日に何度も、煩いほど電話やメールをしてきたのに…結局はそういう事か。
秦野は、その端正な顔に自嘲めいた笑みを浮かべ、手の中の携帯を元あった場所に戻した。
西崎が実家に帰る日の朝、秦野は西崎に最初で最後のメールを送った。
今まで二人の間で、メールをするのは西崎だけで、秦野からメールを送った事は一度も無かった。
だから秦野は…口では言えぬ言葉を、最初で最後のメールを送る事で西崎に伝えた。
『たかし、今まで楽しかったよ…本当にありがとうな。見合い…頑張れよ。そして良い嫁さんを捕まえろ』
味も素っ気も無い最後の言葉。それに対する西崎からの返事は無かった。
『判った』 そう言う事なのか、元より西崎自身がそのつもりだったのか。
どちらにしてもあっけない幕切れだったな…そう思った。悔いはなかったし、未練もない…寂しくもない。
そう思いながら、何度も携帯を取り出しては眺める自分に、目の奥が熱くなった。
いつもより酒の進みも悪く、沈みがちな気分は一向に浮き上がる気配も無かった。さりとて誰かと話すのも億劫で、
そろそろ引き上げようかと腰を上げかけ、秦野はもう一度座り直すとマスターに声をかけた。
「マスター、さっきの話だけど…もう相手は決まったのか?」
「まだですけど。もしかしたら、その気になってくれました?」
マスターが妙に弾んだ声で言うのが何となく可笑しかったが、この男が、そこまで入れ込む相手に、
少なからず興味を持ったのも事実だった。だがそれ以上に、もう西崎とは…そんな思いが、秦野の上げた腰を引き戻した。
「そうだな。マスターのお墨付きなら相当良い子だろうから。みすみす他の奴にくれてやるのが惜しくなった。
そんな処かな。うじうじしていても始まらない、今夜は常世の夢でも見させてもらうか」
「そうですか、判りました。それじゃ、彼が来たら尚さんの隣に座らせて良いですね」
「あぁ、頼む…」
そう言いながら秦野は、ぼんやりとこのあとの事を考えていた。
【今夜はタチに戻るか…。そしてこれから先も…一夜限りの相手と一夜限りの逢瀬…それで良い】
元々秦野は、女でも男でも相手に出来るバイだったが、本気で惚れた相手は男だった。
だが…まだ二十歳になったばかりの若いミュージシャンの卵は、いとも簡単に秦野を裏切り、
スポンサーになってくれると言う爺に乗り換えた。それで男はこりごりかと思いきや、どういう訳かそれ以降も、
女より男と寝るほうが多くなって。女性とベッドを共にする事はなくなっていた。
相手はいつも純真そうな若い男の子。どちらかと言えば、小柄で華奢なタイプが多かった。
そのぐらいだから、当然秦野が抱く方で…男に抱かれたのは西崎が始めてだった。
それなのに、なぜ西崎と…。 そう思えるほど、西崎はそれまで秦野が付き合った相手とはかけ離れていた。
秦野より悠に身長もあり、どう間違えても華奢とは言えなかった。
そんな西崎を、自分は抱こうと思ったのだろうか。秦野には、未だにそれが不思議でもあった。
最初の夜、西崎は秦野をそっと抱きしめ。
「抱いても良いですか」 と言った。そして秦野は、一度も受けの経験が無いにも関わらず、
「あぁ、良いよ」 なんの躊躇いも無く答えた。
そして西崎との一夜で知ったのは、身を切るような痛みと嘗て感じた事がないほどの快楽だった。
あれから半年…何度抱かれたのだろう。今は抱かれるのが当たり前で、自分がタチだった事すら忘れていた。
俺を抱くのはお前が始めてで、お前が最後だぞ…西崎。心の中の呟きは、秦野が自分で自分につけた決別のような気もした。
立原 翔…と名乗ったその大学生は、確かにマスターの言ったとおり、嘗ては好んで相手にしていたタイプの若者だった。
柔らかい頬のライン、大きめの二重の目に、ほっそりとした華奢な体型。
そしてそれらは…あの苦い思い出と結びつき秦野に苦笑を誘う。
「あの…僕、あまり慣れてないので宜しくお願いします」
翔はホテルの部屋に入るなり、緊張した顔で秦野に言うとペコリと頭を下げた。
ほんの半年前までは、そんな初々しい様子がたまらなく可愛い…と思ったはずだったのに、
どこか過去の遺物になってしまったように感じるのは気のせいなのか。それとも自分が変わったせいか。
秦野は一瞬戸惑いを覚えたが、それでもそれに目を瞑り…言った。
「あぁ、心配しなくて良い」
だが、答えてからなぜかまたも違和感を覚えた。いつもなら…部屋に入ると、西崎は真っ先に秦野をそっと抱きしめた。
それから優しくキスをされ…そしてシャワーを促され…それから…それから…そして違和感のわけに気付いた。
【あぁ、そうか。俺は、受身に慣れてしまっているんだ。今日の相手は西崎じゃないのに。
今日だけではなく、これから先ずっと…もう誰に抱かれることもない。
だから、西崎に出会う前に戻らなくては。そうでなければ、メールを送った意味が無い】
「ゴメン…大丈夫だから、君は何も心配しなくて良いよ」
改めてそう言いながら彼を抱きしめると、翔は秦野の胸の中で小さく頷いた。そして、
「キスは…平気か?」 秦野が問いかけると、翔はまた小さく頷く。
「そうか…。それじゃ、その先は?」
抱きしめたままもう一度聞くと、一瞬の躊躇いがありそれからコクリと頷くのが判った。
だから…その顎に手を掛け翔の顔を上げる…と。不安そうな瞳が秦野を映し、瞼がゆっくりとそれを覆い隠した。
それなのに秦野の唇が触れると、翔の唇は貝のようにキュッと閉じた。
【おいおい…それじゃ、キスも出来ないだろう。もしかして本当は嫌なのか? もし、そうだとしたら……】
秦野の奥で囁く声が聞こえたが、それは思ったより不快な響きでは無かった。だから、
「判った。それじゃ、俺が先にシャワーを使う事にするから、その間にどうするか決めなさい。
俺がいない間に帰るか、俺の次にシャワーを使うか…それを自分で決めなさい」
秦野はそう言うと、翔を抱きしめていた腕を解きバスルームへと向かった。
正直、気持ちは失せていたと言って良かった。と言うより、最初から無かったのかも知れない。
そんな無意識の気持ちが翔に伝わったのだとしたら…悪いのは俺か…秦野はそんな気がした。
出来るだけゆっくりとシャワーを使い、翔が帰るまでの時間を稼ぐ。
そして、流石に帰っただろうと思う頃合を見計らって、バスタオルを腰に巻きつけただけで部屋に戻ると、
ベッドの上に正座したまま俯いている翔がいた。その姿を目にした時、
秦野の頭の中に今まで一度も思った事のない考えが頭に過ぎった。
【帰らなかったのか…面倒だな…】
翔を横目に、手にしたフェイスタオルで頭を拭きながら、秦野は冷蔵庫からビールを取り出す。
そして、プルトップを引きあげると噴き出す音と僅かな泡。それと共に閉じ込められていた香りが飛び出し。
そのほろ苦い香りが秦野の今の心と重なる。それを一気に半分ほど流し込むと、
秦野はゆっくりとベッドに腰を下ろし。そして、俯いたままの翔に向かって。
「帰らなかったのか。それじゃ、さっきのような真似は許さないぞ、判っているな」
苛立ちも混じえて少しだけきつい口調で言った。
だが 翔は、小さく頷いただけで顔を上げる気配も見せず。その様子に、秦野は些かうんざりしながらも、
「そうか。それじゃ、シャワーを使って来なさい」
今度は穏やかな声で言う。すると翔が、やはり無言のままベッドから降り、
秦野の前を通り抜けバスルームへ向かおうとした。その時、秦野が手を伸ばし…翔の細い手首を掴んだ。
「あっ!」
驚きの声と一緒に翔の顔が上がり、秦野を見つめたその目が怯えの色を宿し、掴んだ手首が翔の緊張を伝える。
今まで泣いていたのを物語るように赤く充血した瞳と、幾分腫上がった瞼。それを見た秦野は、
【あ〜ぁ…やはりな】 そう思った。正直予想はしていたが、まさか泣くほどとは思っていなかった。
だから、翔の赤く潤んだ目は驚きでもあったが、それよりも翔の行動が不可解に思えてならなかった。
「お前、そんな泣くほど嫌なのに、なんで帰らなかったんだ?」
秦野が幾分呆れたように言うと、翔はその時だけは秦野を睨むような目をして。
「なっ! 泣いてなんか」
そう言うと唇を噛み再び俯いてしまった。まるで、無理にでも秦野と関係を持とうとしている。
そんなふうにも見える翔の行動が、何となく今の自分と重なって見えて…不愉快を通り越し可笑しくさえ思えた。
「嘘つくな。そんなに目を赤くして、まさかゴミでも入ったとか言うつもりか?」
秦野の言葉に翔は何も答えず俯いたまま。そんな翔に、秦野は苦笑いを浮べ大きくため息を吐いた。