一夜の契り幾重に重ね


後篇

以前の秦野なら、面倒な相手をどうにかして自分の懐に取り込む。それも楽しみのひとつと思っていた。
だが今は…そういう事すら面倒でどうでも良い…そんなふうに思えて。そのせいか、苛立ちとか逸る気持ちもなく。
本当は自分も含めてなのだろうが、今は翔の事が哀れにさえ思えた。それなのに翔は、この期に及んでもまだ、
「シャ、シャワーを浴びてきます」
などと言い、秦野の手を振りほどこうとする。だから思わず、
「シャワーなんか良いから、此処に座れ!」
そう言って、掴んでいた翔の手首を思い切り引くと、翔はのめるようにして秦野の隣に腰掛けた。

「なぁ、お前…慣れていないなんて言ったけど、本当は男とこんな所に来るのは初めてじゃないのか?
もし、そうだったら…最初ぐらい、自分が本当に好きな奴とやりたいだろう。
それより何より、どんなことをするのか解って此処に来ているのか?
誰でも良いなんて…そんな考えだったら、相手をするこっちがバカにされているような気がするぞ」
口から出た声は、自分でも意外と思えるほど穏やかな声だった。そして翔も…俯いたまま小さな声で答える。

「そんな…バカになんて…」
「だったら、売りにしろ。そしたら、お前を買ってやる」
秦野のその言葉で、翔は俯いていた顔をあげると怪訝そうな表情で秦野を見つめた。
「うり? 何を売るんですか?」
「お前のバージンに決まっているだろう。初物が好きな奴は、結構高く買ってくれるらしいぞ。
けどまぁ、俺はそんなものに興味は無いから高値は付けないけどな。それでも、相場でなら買ってやるよ」
秦野の言葉に翔は何度か瞬きを繰り返し、それからやっとその意味を理解したのか、今度は真っ赤になって秦野を睨み付けた。

「バッ! バージンって、僕男です!」
その顔がなんとも可愛いらしく、面倒だと思う気持ちとは別に少しからかうのも悪くない。そんな気持ちになってくる。だから、
「男だけど…後ろは処女だろう? 普通、男も女も其処は出口で入り口じゃないからな。むりやり其処に進入されるんだ。
好きな奴の為ならそれも良いさ。けど、そうでなかったら…せめて価値を付けてやっても良いんじゃないか?
そのうち、其処だけでいけるようになれば、そんな事は関係なくなるがな」
調子に乗って、言わなくて良い事まで言ってしまい…それを聞いた翔が、

「え? お尻でいっちゃうんですか?」
びっくりしたような顔で聞き返した。そして秦野は、自分の言った言葉に自分で慌ててしまう。
そして、それ以上ボロを出さないようにと、さっきから不可解に感じていた翔の行動の理由に話を逸らそうと企む。
「あぁ、そうらしいな。まぁ、その話はなんだ…俺には良く判らん。で…お前、本当は好きな奴いるんじゃないのか?」
無理やりシフトさせた秦野の問いに、翔は素直に?またしても黙り込んでしまい。

「やっぱりな。それで、そいつはお前の気持ちを知っているのか?
まぁ、こんなことをしているんだから判っているわけないか。もしかしてノーマルなのか? そいつは」
秦野は自分の想像を口にした。

「判りません。でも理解はしてくれていると思います。そうでなければ、相談になど乗ってくれないと思いますから。
でも…仕事絡みだから、仕方なく理解しているような態度でいるのかも知れません。
それでも、僕に貴方を紹介してくれたのは、僕の事なんてどうでも良かったから…そんなふうには思えません」
相変わらず俯いたままだったが、それでも声と口調は小さいながらはっきりしていて、
何となく好きな男を庇っているようにも見えた。そして、翔の話から見えてきたその男は…。

「仕事絡みで相談。紹介…。それ、ひょっとしてマスターの事か」
秦野が言った途端、翔が俯いていた顔を上げ…その顔がみるみる赤く染まった。
そしてその赤味を首筋まで広げ、ふるふると首を振りながら。
「どっ! どうしてそれを」
口が動作とは反対の事を告げた。それなのに、その事に気付いていないかのような翔に。秦野は笑みを浮べ。
【マスターの言うように、初心で素直な良い子だよ…お前は】 心の中で呟いた。

「あの人はバリバリのホモだぞ。あんな言葉遣いはしているが正真正銘のタチだ。お前、本当に知らなかったのか?」
【俺だって一度は口説かれた事がある】
心の呟きは口にしなかったが、以前マスターの奥田に、「俺のネコにならないか」 と誘われたのは事実であった。
その頃は秦野も、そんなつもりは無かったのではっきり断ったが、今の秦野を知ったらあのマスターは何と言うだろう。
間違っても、こいつを預けたりしなかったろうに。そう思うと、奇妙なめぐり合わせに何となく笑みが零れた。

「知りませんでした。僕、以前にあの近くで、変な叔父さんにしつこく誘われたことがあるんです。
その時、通りかかったマスターに助けてもらいました。
それから、僕をお店まで連れて行って、ココアをご馳走してくれたんです。
そのココアがとっても美味しくて、温かくて。僕は、自分が抱えていた悩みを打ち明けました。
するとマスターは黙って僕の話を聞いて…最後に、僕に言ってくれました。

「人を好きになれるという事は、それだけで素晴らしい事ですよ。心から人を愛せる…。
それは相手が男だろが女だろうが関係なく、とても幸せなことだと思います。
だから、自信を持って人を愛しなさい。そうすればきっと、君が誰かを愛するのと同じように、
君を愛してくれる人に、必ず巡り会えますよ」 そう言ってくれました。

それから、時々お店に行くようになって、いろいろと話をしたり聞いたりするうちに、
僕は、どんどんマスターが好きになっていく自分に気づいたんです」
目を潤ませて、マスターが好きだと言う翔の顔が、なぜか…秦野にはとても眩しく見えた。
心に思うだけで泣きたくなる…そんな相手がいながらなぜ? そう思いながら秦野は、
本当は西崎を思いながら否定し、逃げ続ける自分と重ねあわせて、苦渋の笑みを漏らした。

「だったら、なんで俺なんかとこんな所に」
「それは……」
翔が語った事によると…何のことは無い。マスターのお節介が原因なのだと判った。
それも、とてつもない勘違いの迷惑この上ないお節介。
翔は、それとなくマスターを示唆する表現で自分の気持ちを告げたのだが。
当のマスターは、それを自分の事とは気づかず、単に理想のタイプだと勘違いした。

優しい、それに冷静で頼りがいのある大人が、どうして年上のあと腐れの無い人になるのか判らないが。
「それなら秦野が良いだろう」そう言われ、反論する間もなく秦野を紹介されたという。
結果、秦野にも甚だ迷惑な事になったのだが、当の翔はと言えば、好きな男に他の男を紹介されたのである。
こんな迷惑で可哀想な話もないだろう。そう思うと秦野は、翔が気の毒に思えてならなかった。

それに…今更翔と何かをしようという気持ちは、全くと言って良いほど無くなっていた。
だからでは無いが、多分…これも大いにお節介だろう…と判っているお節介を秦野も選んだ。
「お前な…大好きな人がいて、その人に自分の気持ちも伝えてもいないうちに他の男と関係を持ったら、
それこそ後悔することになってしまうだろう。相手に、ちゃんと自分の気持ちを伝えて。
その結果、どうしても受け入れてもらえない。そう判ってからでも遅くはないぞ。

その時は、俺がお前の相手をしてやるよ。だから、はっきりマスターに伝えろ。
あんたが好きだから、初めてはあんたと…そう言って、自分の気持ちをぶつけてみろ」
自分で言いながら【何を言っているんだか。俺らしくも無い…】そう思えなくもなかったが、
ただ、この若者には泣き顔は似合わない…秦野はそんな気がした。

「はい、解りました。今度は、僕はマスターが大好きだと…はっきり伝えます。
でも、マスターが僕に紹介してくれたのが秦野さんで良かった。本当にそう思います。ありがとう御座いました」
翔はそう言って、二つ折りになって秦野に頭を下げた。それから、急いで身支度を整えると、
もう一度頭を下げ部屋から出て行った。その後ろ姿は何処となく嬉しそうで、希望に満ちているように見えた。

一人でこんな所に泊まるのも、白々しくうそ寒いだろう。いったい俺は、何をしているんだか。
秦野はぼやくように呟くと、ジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、またも履歴を確認する。
それから、諦めたようにホッと肩を落とすと店の番号を押した。
そして電話に出たマスターに、一方的にはた迷惑なお節介の文句?を言うと、電話を切った。
ただ…翔の好きな相手が、マスター本人だという事だけは言わなかった。

その後ホテルを出ると、真っ直ぐ部屋に帰り灯りも点けずベッドに潜り込む。
翔には偉そうな事を言いながら、未練たらしく携帯を覗く自分。見合いなどしないでくれ…と言えない自分。
精一杯の見栄に押しつぶされそうなくせに、見栄をはる自分に泣きたくなる。
眠ろうと目を閉じても、浮かんでくるのは西崎の顔。会いたい…愛しい…心がそう叫ぶのを聞いた。

連休が終わっても、西崎からは何の連絡も無く…自分から別れを告げたはずなのに、
心の何処かで、西崎が連絡をくれるのを待っている自分が女々しいと思った。
それでも一日二日と日が過ぎ、諦めと虚しさと…痛みで溢れそうな心は眠りを嫌い、
夜と昼の区別なくぼんやりと霞がかった頭は、秦野から気力まで奪い去っていくような気がした。

自分は、このまま朽ちていくのでは…そんな不安と、それならそれでも良いか。
自分を投げ捨てるような諦めの気持ちが入り混じり、ただ、ベッドの中で目を閉じ、
耳を塞ぎ、芋虫のように丸くなって。このまま、蛹になりたい…女々しくもそう思った。


「やっぱり心配したとおり、まともにご飯も食べていないようですね。
あれほど言ったのに…尚さんは、何でそんな簡単な事も出来ないんですかね」
頭の上から注がれた声に、頭が空耳だと疑った。それなのに心が…身体がその声に反応し。
今の今まで寝返りするのさえ億劫だったのに、秦野はいきなり布団を跳ね除け起き上がった。
目に映るのは、会いたい…と切に願った愛しい男の顔。それなのに秦野の口から出た言葉は、この現実を疑う言葉。

「隆……お前…なんで…」
「ただいま。たった今帰ってきました。少しでも早く尚さんの顔が見たかったから、真っ直ぐ来てしまいました」
そう言うと西崎は、信じられない…そんな顔で自分を見つめている秦野を、そっと抱きしめた。
そして【あぁ、温かい…お前の温もりだ】そう思った途端、秦野の目から涙が溢れ出た。

「どうして…どうして来たんだ。俺が、せっかく……」
諦めようとしていたのに…そんな言葉や思いとは裏腹に、西崎の首に縋る自分がいる。
西崎は、そんな秦野の頭を撫で髪にキスを落とし、それから少しだけ力を込めて…キュッと抱きしめた。

「すみません…帰るのが予定より遅くなって。尚さんに心配かけてしまいました。許してください」
西崎の柔らかい声が耳から入り込み。別れを決心したしたはずなのに…心がそれを待っていたかのように揺らぐ。
本当は、心の何処かで待っていた。心配していた。だから…西崎が戻って来てくれた事が本当に嬉しい…と思いながら、
それでも…もしかしたら、別れを言いに来たのかも…そんな不安も何処かにあった。だから、

「違う…そうじゃなくて…お前に俺の…」
なけなしの決心を…と言おうとした秦野の言葉など、まるで歯牙にも掛けないとばかりに、西崎は簡単に言い切った。

「メールの事ですか? 僕は、あんなもの尚さんの本心だなんて思っていません。
だから、見るには見ましたけど直ぐに削除してしまいました」
「えっ? 削除って…お前」
自分なりにずっと考えて…決断した別れのメールだったのに、それを一蹴で削除。
それって、あんまりじゃないか。俺は何の為に…。この数日間の自分の辛く苦しかった心…それを、こいつは一言で。
心の中を満たすのは、嬉しさが大半。なれど、身を切るような自分の決断を無視されたような悔しさも少し。
そんな複雑な思いの秦野に、西崎は当然という顔で言った。

「だってそうでしょ? 尚さんが俺から離れるなんて有り得ませんし、俺も尚さんを手放すつもりはありません。
そんな事、尚さんだって判っている事でしょう?」
「だって、お前…見合い。嫁さんをもらうのに、俺なんか相手にしていたら……」
「あれは、断りました。それと、俺には二度と縁談を持ってこないように、両親にはっきり伝えて納得してもらう。
その為に態々家に帰ったんです。だから、戻ってくるのが遅くなってしまいました」

「二度と見合いをしないって…それじゃ、お前結婚出来ないぞ」
「尚さん、俺を見くびっていません? 俺は見合いなどしなくても、結婚相手ぐらい自分で見つけられます」
やんわりと…でも、毅然と言い切る西崎に、秦野は自分が無意識に目を逸らしていた事実…に気付いた。
【そうか…そうだった。西崎は、見合いなどしなくても女が放って置かない。良い男だし仕事も出来る。
それにとてつもなく優しくて、理想の恋人、夫、そして父親になりそうだから、見合いなど必要なかったんだ。
判っていたのに…それら全てに目を瞑るほど、俺はこいつに溺れ…甘えていた】

「そうだな…お前なら良い女自分で見つけられる。俺は…そんな事も忘れていた」
「そうですよ。だから、自分で見つけました。一生共に生きる人を」
「! それじゃ、やっぱり…」
やはり別れを言いに来た…そう思った途端、秦野は目の前が真っ暗になった気がした。
そして足もとには、ぽっかりと大きな穴が空いて…今にも自分がその穴に落ちてしまいそうな気がした。

少しだけ膨らんだ気持ちは一気に萎れ、眼の奥が熱くなって…
「そんな事なら、戻って来て欲しくなかった。このままそっとしておいて欲しかったよ。
何で、態々そんな事を言いに来たんだ。面と向かって言われたら…俺は二度と立ち上がれなくなる。残酷だよ」
泣き言を言う自分を情けないと思いながら、言わずにいられない自分が哀れでならなかった。
だが、秦野のその言葉で西崎の表情が何処かホッとしたように緩み、手が秦野の頭を掻き抱く。そして、

「尚さん…俺が実家に行く前に尚さんが俺に聞きましたよね。俺が、尚さんの何処が良いと思っているのかって。
あの時はきちんと答えませんでしたが、その返事を今言います」
西崎はそう言うと、抱きしめていた秦野をそっと押し戻し…少し離れて真正面から向き合って座った。
それから、もう一度手を伸ばし秦野の頬に触れる。
その手が首に、肩に…胸に…それから下腹部へと移動し、それを追うように西崎の言葉が連れ添う。

「俺は、尚さんの顔が好きです。それからこの首も肩も…小さな胸の飾りも…細い腰も、尚さんの身体全部。
俺の指が触れるだけで、淫らに溶けるこの身体が好きです。
それと、寂しがりで甘えたがりのくせに、俺の言う事をちっとも聞かない意地っ張りの性格が可愛い。
そして…一番愛しいのは…俺の為に、男でありながら俺を受け入れてくれる大切な処。

だから…タチだった尚さんが俺の為に捨ててくれたものを。尚さんの全てを、俺は一生守って行きたいんです。
愛しています。秦野尚という男の心も身体も全部…最後の一欠けらまで、心から愛して已みません」
途中から西崎の顔が揺らいで、霞んで…ぼやけて見えなくなった。それでも秦野の唇が、
「だって…嫁さん…」
意味の無い言葉を紡ぐのは秦野の最後の足掻き。だが、それすらも涙と西崎の声にかき消された。

「どうしても、俺に嫁さんを…そう思うなら、尚さんが俺の嫁さんになって下さい。
両親には、はっきり伝えました。好きな男がいる。だから、その人と共に生きていく…と。
毎日親父や兄貴に怒鳴られました。母親にはずっと泣かれっぱなしでした。でも最後には「勝手にしろ…」そう言われました。
それから、帰って来る間際になって兄貴が言ってくれました。
「決心が揺るがないのなら、相方の顔ぐらい見せに連れて来い」 と。
だから…夏の休みには一緒に行ってくれますか? 俺の実家に…俺の家族に会いに」

「なんで俺が…なんで勝手に…なんで……」
秦野の抵抗の言葉は、涙に流され言葉にならなかった。だから…ならない言葉の代わりに。
想いの全てを込めて伸ばした秦野の手を、西崎がしっかりと握り…身体ごと引き寄せた。

尚さん…やっと、捕まえた。 ちょっと、お仕置きが過ぎたようだけど…でも判ったでしょう?
尚さんは俺から逃げられないって。俺の、可愛い嫁さんになるしかないって……判ったでしょう?