ピジョンブラッドの赤−8(完)


それにしても…よくもこれほど、下らない事ばかり聞くものだ。 三流雑誌のインタビューも顔負けだな。
などと感心しながらも、これ以上、上條を晒しもの?にしておく事は私にとっても限界だった。
だから…そろそろ、最後にするか…と、ばかりに上條の手をもう一度強く握りしめると、
「もう、この辺で終わりにしていただけますか。 
彼を、この座に連れて来たのは、私が美鈴と別れる理由を 正直に伝えようと思ったのと、
自分の大切な人が、同性だからと言って、こそこそ逃げ回るような真似をしたくなかったからです。
それと…私の決心が固い事を、皆さんに示したかっただけで、
間違っても、貴方がたに彼の品定めしていただく為ではありません。

ただ…美鈴には、本当に申し訳ないと思っています…が、今後の事を考えたら、
美鈴の為にも、きちんと別れたほうが良いと思ったからです。 ここに、必要な書類は整えてあります。 
もちろん 署名 押印は済ませてありますから、後は美鈴の都合で提出してもらえれば良いようになっています。
それで、私は宮田の家とも、会社とも関係なくなります。 あと…晴信の親権も放棄します。
晴信は お義父さんにとっても、宮田の家にとっても大切な子供です。
今後、何かと迷惑をかける事態が生じかねない…それを避けるためにも、全てを美鈴に一任したく思います。
長い間 大変お世話になりました。 そして…皆様に御迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
私はそう言うと、皆に向かって深々と頭を下げた。 そして、私の隣で上条も…

これで…全て捨てた。 それでも、悔いはなかった。 
たった一つ この手で握り締めているものがあるなら、他には何もなくて良い。 それだけで、生きていける。 
それだけで幸せだから…。
「ヒナ…行くぞ!」  私が、握った手に力を込めると…上條は私を見つめ、
「うん…」  と、言って今にも泣きだしそうな笑みを浮かべた。 
それなのに、その笑顔は私が今まで見てきたどんな物よりも綺麗で…輝いて見えた。

だが…立ちかけた私達を制したのは、凛とした美鈴の声だった。
「お待ちになって。 もう少し話を…。」  
そんな美鈴の言葉に対し、これ以上何かを話そうとも、解ってもらおうとも思っていない私は、静かに言う。
「美鈴…すまない。 もう、決めた事なのだよ。 引き返すつもりはない」  
「判っております。 この期に及んで、貴方方に何かを言うつもりはありません。
ただ…私は、貴方と離婚するつもりはありません」
この期に及んで…と言いながら、この期に及んで最悪の決断を言い渡す美鈴に、
「そうか…。 だが…私は、君の待つ家に帰るつもりはない」  私は、はっきりと告げた。 すると、
「それも、承知しております」  美鈴はそう言うと、今度は上条に向かって
「上條さん…宮田を、貴方にお返しします」  と、意外な言葉を口にした。

「えっ??」
「はっ? 」  
私達は美鈴の言葉に一瞬顔を見合わせ、もう一度、美鈴に視線を戻す。 
そんな私たちに向かい、美鈴は徐に言葉を続けた。

「宮田と貴方は、学生時代から想い合っていたのに…宮田は、愚かにもその事に気付かず別れてしまった。 
でも…終わりを告げない別れは、心の中に留まり…幾年過ぎようと終わらせる事が出来ない。
だから、再び巡り会うと、別れたその時から続きが始まる…そうですよね。
私は、その間宮田を預かっていただけ…そして、もう一度巡り会った貴方に、宮田をお返しする。
そう考えれば、これも私たちの運命だったのだと諦めもつきます。 
でも…私と宮田は、男と女。 子供を…晴信を授かってしまいました。 

ですから・・上条さんには申し訳ありませんが、晴信の為にも 私は宮田と離婚はいたしません。
子供にとって…特に男の子にとっての父親は、とても大切な存在だと思っております。
今後、晴信が成長していくにあたって、必ず父親が必要となる時がくるでしょう。
ですから…たとえ一緒に暮らしていなくとも、宮田には父親としての役割を、果たしていただきたいと思います。
そして上條さん…貴方にも、時間の許す限り その場に同行していただきたいのです」
美鈴のとんでもない発言に、
「おっ! 俺も? あっ…私も ですか?」  上条が驚きの声をあげる…が、美鈴は涼しい顔で、

「はい・・父親のいない子供より、晴信には二人の父親、そして二人の母親を与えてやりたい…そう思っています。
運命とは言え、私達大人の身勝手で 晴信にその付けを払わせる訳にはまいりません。
周りからみれば、奇異と思えるかもしれませんが、その分、有り余るほどの愛情を注いでやりたいのです。
今の日本の法律では、私と宮田が離婚したところで、貴方と結婚できる訳ではありませんでしょ?
それとも…何がなんでも、外国に行ってでも、宮田と結婚なさるおつもりですか?」  
などと言いながら、笑顔さえ見せる。 その美しい顔の下で何を考えているのやら…と、思いながらも、
『頼むから下手な答えを返すなよ…』 と、私が少しばかり不安を感じていると、上条は、
「いいえ そんな事は…私は、学が好きなだけですから」  まるで、美鈴の望んでいるような答えを口にした。 

離婚は、夫婦が合意しなければ成り立たないのは当然の事で、たとえ裁判に持ち込んだところで、
美鈴の側から訴えたのであれば、容易に認められるのだろうが、私からの訴えなど認められるはずは無い。 
そして、その美鈴が離婚を拒んでいるのだから、私にはなす術もない…というのが本当のところで、
一体何を考えて、上条を巻きこもうとしているのか…私たちの間に波風を立てようというつもりなのか。
そうすることで、いつかは私たちの間に亀裂が生じ…別れる…とでも思っているのか。
私は、美鈴の意図を測りかね…あれこれと考えをめぐらす…が。
美鈴は、そんな私の心中を察したのか…今度は私に向かって、にっこりと微笑むと、

「それなら…私に何かあった場合には、あなた方お二人で晴信を育てて頂けますよね」  と、言った。
そして、その言葉はまたも意外で…益々私を混乱に導く。 
それは上条も同じだったようで、上条の顔にも微かな不安の色が浮かんだ。
「え? なにかって?」
「それは…どういう意味なのだ?」
「例えば…ですが、将来私に好きな方が出来たとします。 私は、どうしてもその方と結婚したい…そう思った時、
多分私は、迷わず晴信を貴方方に預けて、その方の元へ参ります。  
その時には…上条さん。 晴信を…貴方方お二人に育てて頂きたいと思っておりますの。 
その為にも、これからは育児に参加して頂いて…立派な継父、継母になって頂きませんと…ね。 
だって…私は子供の産めない上条さんの代りに、宮田の子供を、産んでさしあげたようなものでしょう?」

思考回路の何処をどう繋げれば、そういう考えになるのか理解出来ない私は、美鈴の言葉に、
「ば! バカなこと!!」  と、言ったきり後が続かず…
上条は…と、覗うと…これが驚く事に、なるほど…と言わんばかりに、しきりと頷きながら、
「はぁ、確かにそう言われれば…私は男なので、産めませんね」  などと、納得顔で言い…それから、機と気付いたように、
「は! いや…それは…別に産みたいと言うわけでは…・」  
慌てて意味不明な事を言いながら…手を振り、首を振る。 
上条らしいといえば上条らしい反応だが、その様子がよほど可笑しかったのか、美鈴はクスクスと笑いながら、
その表情は、まるで晴信を見つめるときのように穏やかで…夫の浮気相手を見る目とは思えなかった。
意図を隠すための仮面なのか、それとも…本当に敵意が無いのか。
私には、美鈴の真意を見分ける事もできず…そんな私を他所に、美鈴は、

「ふ・ふ・ふ…冗談よ。 でも 宮田の気持ちが、少し分かるような気がしますわ。
だって、上條さんって…反応がとっても可愛いらしいし、意外性があって楽しいですもの。
とても宮田と同じ年齢だなんて、信じられませんわ。 いろんなお話をしたら、きっと楽しいのでしょうね。
そうだわ! 今度、お食事に付き合って頂けます? イタリアンの美味しいお店知っていますのよ。 
継父の第一歩ということで、晴信を連れて三人で行きましょう」
あろうことか、夫の愛人を食事に誘う。 そして…これまた、あろうことか、上条が…本妻の誘いに、
「はい! 是非 喜んで御一緒させて頂きます」  本当に嬉しそうに答え…大きく頷いた。

「オ・・オ…オイ! ヒナ!!」  私は、思わず大声を出し。 
「み…美鈴…」  義父が…情けない声で娘の名を呼ぶ。 そして…
「流石、儂の選んだ嫁。 誰も太刀打ちできんか。 ははははは」  祖父の快活な笑い声が、部屋中に響き渡った。
その一瞬、私は…美鈴に完敗…その一語に尽きる…・そう思った。

結局私は、妻と別れることは出来なかった。 
それでも…上条と一緒に歩む事に目を瞑ってもらえた事に、ホッとしている自分が情けなくもあり。
上条にすまない…そんな気持ちで、上条に目を向けると…上条はベッドに腰をかけたまま 目を窓の外に向け、
その両手は膝の上で、左右互いに求めあうように無意識に握り合わされていた。 
私は、その上条の手をそっと包み…その時、指先の冷たくなった上条の手が、微かに震えているのに気付いた。
互いに言葉も無く…ただ重ねあった私の手の中で、上条の手が少しずつ温もりを取り戻していく。 
そして…くちなしの甘い香りが風に運ばれ…部屋の中が柔らかな香りで満たされた時、
上条が、外に向けていた視線を私に向けた。
 
「学の手…温かい。 俺は、この温かさに包まれて生きていきたいと願い…それを叶えようと此処に来た。
でも…俺は今日始めて、そんな自分が嫌だと思った。 学と再開した時、自分を抑えられなかった事。 
学を止められなかった事。 そして何よりも…学の側に居たい…と、望んだ事。 
それらを、後悔はしないけど…それが、あの聡明で優しい人を傷つけ、苦しめた。 
俺の事張り倒しても足りないくらい、憎いはずなのに…恨み言一つ言わなかった。
それが、とても辛い…。 なのに、それでも学と共に生きていきたいと思う自分が、たまらなく嫌だ」
目を潤ませ、唇を震わせ…上条は、自分の心に抗えない自分を嫌だと言う。 
人の心を傷つけ…痛みを与えた。 それは、私のような者でも呵責を覚えるのだから、
負の感情に縁遠い上条の心は、傷つけた相手の何倍もの痛みを伴い、重い十字架を背負ったように思えるのだろう。

「それでも…進む以外ないんだ。 俺は、お前を…・お前は…俺を、選んでしまったのだからな。 
美鈴は良く出来た女だ。 俺には、もったいないほどの妻だっていう事は、俺にも解っている。
あの親父から、なんであんな娘が…そう思えるほど聡明で優しく…おそらく、妻としては最高の女だと思う。
それでも、俺は…男のお前のほうが良い。 お前しか愛せない。 
これは、どうしようもない事で…俺にも、どうする事も出来ない俺の心なんだ。
美鈴には、それが判ったから、俺たちを責めなかった。 
だから俺たちは…どんな事があっても前に進まなくてはならない…そうは思わないか?」
「うん…判っている。 判っているけど…やっぱり…痛いよ…」
上條は、そう言って涙を流し…私は、そんな上條を ただ黙って抱きしめていた。

だが…私達の決意や、呵責の念は何だったのだろうと思う程、全てが美鈴の思惑どおりに動いていく。
あの後、美鈴は郊外の家を人に貸し、自分は晴信と二人で都内のマンションに越してきた。
挙句に私のマンションまで、勝手に売る算段をしたかと思うと、あれより広いものと買い換えてしまった。
その理由が…晴信が、お泊まりする部屋がない…それを言われると、私たちには返す言葉も無かった。

そして私は、会社を辞める事も出来ないまま…今も会社に通い続けている。 
これも、晴信の父親が、アルバイトや契約社員では困る…と、晴信という天下の宝刀で一刀両断の結果で。
そして自分は…学生時代からの親友を口説き落とすと、派遣会社を経ち上げてしまった。
資金はというと…あろうことか私と祖父に、浮気の慰謝料?と称して資金援助を申し出た。 
当然私は預金を全部提供させられ…祖父も、義父も…資金援助?に応じたおかげで、
美鈴の立ち上げた派遣会社は、借入金無しで立派な株式会社として登録された。
挙句に…それらに関する手続き一切を、上條に押し付けたのである。
  
親友を会社代表に据え、自分は晴信の事を考えて、時間の自由な一社員のままが良いと言い張り。
見ようによっては、周りの人達を良い様に、振り回している気がしないでもなかったが、
おそらく、美鈴の派遣会社は 今後充分成り立っていくのだろう。 
なぜなら、派遣先に連なる企業は…わが社を筆頭に、それなりに安定した企業ばかりで、
そこには当然の如く、義父や祖父の力添えは勿論の事、私まで営業に借り出されたのだから…。
そして…美鈴の新しい住まいは、私達のマンション、両親の家、そして会社を結んだ中心にあった。

美鈴は…愚にもつかない事で、相談と言っては上条を呼び出し買い物やお喋りに付き合わせた。
自分ひとりで行けば済む事に、わざわざ上条を同行させ…上条の休日は、美鈴の我が侭に奪われ、
ゆっくり休む事も出来なければ、二人でのんびりする事も出来ない。 
私は、これ以上晴信を理由にした、美鈴の我が侭の言いなりになって、上條に嫌な思いはさせたくなかった。
それに…美鈴の上条独占状態は、私にとって些か面白くない事でもあり…。

「あの女…最初から、俺達を利用するつもりだったのだ。 全く…ここまでくると、爺さん以上に喰えたものじゃない。 
ヒナ、気を付けろよ。 あいつは絶対、お前の事も自分に都合の良い様に、こき使うつもりだぞ」
私が言うと、上条は部屋に積み上げられた本の山を整理しながら、
「うん…でも、別に良いんじゃない。 俺で役にたつなら、俺はそれでかまわないよ。
それに…美鈴さんと話していると楽しいし、学だって晴信くんに会えるし、一石二鳥じゃないか」
上条は、両手に分厚い本を抱えたまま、私に顔も向けずに言う。

確かに…上條が美鈴と会う時は、ほとんど私が送っていくのが常で、
美鈴もまた、必ずと言っていいほど晴信を連れて来るから、上条と美鈴が二人で話しをしている間、
私は、晴信と一緒に父子の時間を過ごす事になる。 
親権は放棄すると言ったものの、子供が可愛いと思うのに嘘偽りは無く。
そして、今は…以前一緒に暮らしていた時には気付かなかった、子供の小さな変化や表情が、
はっきりと目に映り…前にも増して可愛い…ように感じるのも事実だった。
そんな私の心中を察しているかのように、上条は手を休めることもなく、目を上げることもなく言葉を続ける。

「あの人は優しい人だよ。 そして…学を、とても愛している。
だから…学と晴信くんが、できるだけ自然に触れ合えるように、考えてくれているのだと思う。
もし…あの人のために、俺に出来る事があるのなら、俺は何でもしたい。
そして…それが、俺があの人にした事の償いの一片にでもなれば良い…そう思っている」
上条はそう言うと、ゆっくりと顔をあげ…私を見上げた。 
償い…その言葉に…私は、上条があの日流した涙を、今も流し続けているのでは…そんな気がして、

「お前は、何もしていない。 償いなんて…お前にそんな事を言われたら、俺は…」
お前を愛し続けて良いのかどうか…それさえ不安になる。 口に出しかけた最後の言葉を、飲み込んだ私に、
「まなぶ…俺も、学の言うとおりだと思うんだ。 俺達は、人を悲しませて此処にいる。
でも それを許してくれた人たちに報いるために…俺達は、幸せでいなければならない…って。
学は 晴信くんと会っていて幸せじゃないの? 俺は、美鈴さんといろんな話ができて、本当に楽しいんだ。
だって…俺にとってあの人は、始めて出来た女性の友達だからさ。
あの人を悲しませていながら…矛盾しているけど、あの人が幸せでいられればいいなって思う。
そのために、俺の出来る事があれば何でもしたいんだ。 あの人の優しさに応える事が、償いだと…そう思っている」
上條はそう言って笑った。 その笑顔は何の迷いも無く、私の不安まで拭い去るような穏やかな笑顔だった。
そして…不安の材料は、別の形で告げられる。

「だけど、それも暫くは…会えなくなっちゃうけどね。 実は、来月から東北なんだ」
「え? 俺は聞いてないぞ。 東北の何処だよ?」
「うん、まだ言ってないから。 昨日、出向の辞令が下りた…今度は青森だって」
「青森! で…長いのか?」

「そうだな…予定としたら 二ヶ月ぐらいかな。 でも、もしかしたら、少し伸びるかも知れない」
「二ヶ月…。 家から通えないのか?」
「ばか! 通える距離じゃないだろう。 どう考えたって、無理に決まっているよ」
「そうだけど…二ヶ月も、ヒナに触れることが出来ない。 それって、めちゃくちゃ長いぞ」

「ば! バカな事言って。 でも…できるだけ週末には帰るようにするよ。 何なら、学が来ても良いし。 
そうだ! これから良い季節だから、晴信くんを連れて、紅葉でも見にくれば良いよ」
あえて明るく言う上条に…私の、一番心配でもあり、不安でもある事が頭に浮かんだ。
夜毎私と肌を重ねる上条の身体は、今ではしっかりと情事に馴染み、
僅かに触れるだけで、目に肌に艶を滲ませ、欲情の兆しを露にする…そして、時には自分を持て余し、私を翻弄させる。 
日に日に艶めいて、匂いたつような色香を放つこの身体が、二月もの間…男なしでいられるのだろうか。
そんな、下種な考えが頭を過ぎり…私は、その不安を口にする。

「ヒナ…浮気…浮気するなよ」
「うわき? そんな事できる訳ないだろう。 だいいち、学以外の人とする気もないし。 
あ! でも、美鈴さんのような人がいれば…ひょっとしたら、帰りたくなくなるかも知れないな」
上条はそんな事を言って、ちらりと掬うような目で私を見つめた。
長い睫の下の黒く大きな瞳が、ゆらりと揺れるように動き…私は、その瞳に誘われるように膝を前に…。
ところが…図らずも、床に置いてあった本の一冊に私の膝が乗り…途端に、上条の目から艶めいた色が消え去り。

「あーーー! 本を踏んじゃ駄目だって言っているのに! 足! 足をどかして!!」 
上条は、慌てて私の足に飛びつき足をどかそうとする。 
そして、私の膝の下から救い上げた本を、愛しむように撫でる上条の手は、とても優しくて、
それは学生時代と少しも変わらず…上条にとって、私も情事も…本の次でしかないのかと、
私は、少しばかり安心し…大いに落ち込む。 そんな私の、
「相変わらず、本が一番か…」  
幾分皮肉めいた問いに、上条は床に散らばっていた本を、丁寧に片隅に寄せて積み上げると、

「そんな事言って…学が一番だって判っているくせに。 でも…本は踏まれても、自分じゃ痛いって言えない。 
だから、人が大切に扱ってやらないと可哀想だろう…それより 頼みがあるんだけど」
変わり身が早いというか何というか、上条はさっきの妖しげな眼差しは忘れたように、
今度は、キラキラお目目に変身?して私をじっと見つめる。 私は、この変わり身の速さに呆れながらも、それに釣られ…
「ん? なんだ?」  答える私は…多分、若い娘を目の前にした、中年父親のような顔をしているのだろう。

「納戸…。 今、使っていないよね…だったら、俺使ってもいい?」
「別に構わないけど…何をするのだ?あそこで」
「うん! 出来たら、本を全部入れて書庫にしたいんだ」
「書庫に? 良いのか? 陽も入らないぞ」

「だから良いんだ。 本はね、陽が当たると傷むからさ」
「そうか。 だったら、いっそ本棚を造って、お前が使いやすいように、整理したほうがいいんじゃないか
箱に入れて積んで置いたら、出す時大変だろうし…お前が言う本が可哀想だろう」  私が言うと、
「! 良いの? 本当に、本棚を作っても!」 
上條の顔がパッと輝く・・鼻の下の伸びた中年父親は、益々若い娘の喜ぶ顔が見たくて…。

「あぁ、此処はお前の家なのだから…お前の好きな様に、リフォームでも何でもすれば良い。
書庫なら、換気とか照明とか、いろいろあるだろうから…明日にでも誰か来させる」
まるで中年の余裕を見せ付けるように言いながら、私は自分の下手な妄想に苦笑いを浮かべた。
すると上條は、そんな私の背中に飛びつき、 
「ありがとう 学。 嬉しいな、本当嬉しい!」
私の首筋に チュッとキスをすると…「まなぶ…大好きだよ」 耳元で言った。
素 なのか 手練手管なのか…上條はこういう愛情表現を、衒いもなくする。
そして私は そんな上條を可愛いと思い…少しだけ嫉妬する。 誰かによって身に付けたものなら、その誰かに。

「あったかい…学の背中。 広くて、大きい…。 おれ…こなき爺になりたい」
そう言って上條は、長いこと私の背中に張り付いていた。

私は 上條の僅かな重さと温もりを 背中に感じながら、肩に載せた上條の頭を、いつまでも撫で続ける。
赤い太陽が ゆっくりと明日に向かって沈んで行く穏やかな夕暮れ時の、穏やかな時間。
愛する者と二人 こんな時を刻みながら生きていければ…それだけで良い。
私達は、言葉もなく、ただ互いの温もりだけを感じながら、いつまでもそうして座っていた。


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