死んでからのたった一つの願い


だが凜さんの兄は初めて中頭に顔を向けたと思うと、眼鏡の奥の眼にうっすらと笑みを浮かべ、
やはり穏やかで丁寧な口調で答えた。
「私の弟が無礼ですか。でもこの子はどんなに無礼でも許されるのですよ。私の可愛い弟ですからね。
誰が許さないと言っても、私が許していますからね。無礼でも生意気でも良いのです。
黒崎翼が認めているものを、あなた方に否定する事は出来ない。
それと、私の大切な者を傷つけたらどうなるか…貴方の命などでは償えない事も判っているでしょう?
まさか、それも知らないでこの世界に生きているとは、思えないが…一応警告だけはしておきます」
浮べた笑みもそのままに、だがその声の纏う響きは一介のサラリーマンの声とは思えなかった。

まるで地の底から這いあがり腹の中に言いようのない恐怖を植え付ける。
瞬殺される…そう信じさせてしまうような響き。多分、できるサラリーマンでもそんな芸当は無理。
俺は瞬きするのも忘れ、正体不明の凜さん兄の顔をただじっと見つめていた。
そして中頭は、別の意味で恐怖の実態を知っていたのか、その顔を歪ませる。

「黒崎? くろさき…まさかあの、黒崎…」
「そうです。貴方方は私の顔を知らないと思うが、既に○×には私が此処に赴くことを伝えました。
その時点で、○×は貴方たちを切り捨てる事で組の存続を願い出た。
そんなものですヤクザなんてものは。強者には限りなく媚びへつらい。弱者には限りなく横暴になる。
貴方たちは全員、私への手土産にされたのですよ…○×に」
その言葉で、中頭ががっくり膝を折って床にへたり込んだ。

そしてその様子を見ていた下っ端の組員たちは、事情も良く解らないまでも、
自分たちが非常に不味い状況にある事だけは察したようで、皆一様に不安そうな顔で互いに見合う。
普段は看板を盾に傍若無人を決め込んでいる連中も、こうなってみるとただの臆病者にしか見えず。
それを見て凛さんの兄は、ドアの所に突っ立っている連中に声をかけた。

「貴方たちも、○×の組員に姿を見られたらどうなるか判っていますね。
彼等は、私への義理を果たそうと貴方達を探し出し始末しようとするだろう。
私に言わせれば、そんな事は意味のない事だと思うが、
それが組の存続と自分たちの安全を確保する道だと信じている彼らには、解らないだろうね。
彼等に始末されたくなかったら、何処か○×の目の届かない処に今すぐ逃げなさい」
と言ったその声は、何処か連中を憐れんでいる…そんなふうにも聞こえた。

敵に情けをかけてもらいながら、連中の顔にはホッとしたような表情が浮かび、
さっきまで威勢は何処に、今度はその場から逃げようとして、我先にとばかり俺たちに背を向ける。
だが、何時から其処にいたのか、やはりできるサラリーマンふうの男たちが特殊工作員のような顔で、
退路を断つように立っているのを見た途端、連中の顔には恐怖の色が浮かび。
多分…蛇に睨まれたカエル…のように脚が竦んだのか一歩も前に進むことが出来ない。

すると、凜さんの兄は男たちに向かって小さく頷き…男たちは左右に別れ階段への道を開く。
そして連中は、中村を始め誰一人として中頭を気遣う事も無く、転げるように階段を駆け下りて行った。
それも自業自得…と思いながらも、俺は一人残された中頭が何となく気の毒にさえ思え。
後ろを振り向くと、凜さんが腑抜けたように座り込んでいる中頭の側で中頭を見下ろし、

「ねぇ、お前さ。どんなに欲しくても手を出しちゃいけない物もあるし、どんなことをしても、
絶対に手に入らないものもあるのだよ。それが判らないと、自分で自分の首を絞める事になる。
なんなら、お前を満足させてくれるような奴を探してやろうか? 僕はこう見えても、結構顔が広いからね」
そう言ってにっこりと笑った。俺は、その艶やかな笑顔を見つめながら…。

この辺りで一番勢力のある○×会が、そこまで義理を立てると凜さんの兄とは…裏社会のラスボスで。
謎の人凜さんもまた、本当は冷徹で途方も無い鬼畜な人…そう思った。


あの後大崎は病院に運ばれ診察を受けたが、片足は完全に折れていて、
もう片方にも皹が入っている事が判った。凛さんのおかげで早急に手術をしてもらえたが、
医師には、折れてから時間が経っているので回復に時間がかかるし、
ひょっとすると完全には元通りにならないかも知れないと言われた。

俺は、悔しいのと情けないのと。それでも、大崎が死ななくて良かった…と安心したのと。
いろんな思いがごちゃ混ぜになって、手術が終わるのを待っている間中涙が溢れて止まらなかった。
それでも、麻酔が醒めて手術室から出てきた大崎に駆け寄った俺に、大崎が笑みを浮べ、
「お前が無事で良かった。お前に何かあったら、俺はまたあの想いを繰り返すところだった。
でも、ありがとうな。俺なんかの為にあんな危ない処まで来てくれて…本当に嬉しかったよ」
そう言ってくれたのを聞いて…その笑顔を見て…俺は嬉しくてまたも涙が出た。

【なんだよ…そんな顔でそんな事を言われたら…俺は、逝きたくなくなっちまう。
もう少しお前の側で…お前と一緒に。そんな叶わないものを望んでしまうじゃないか】


それから間もなく大崎の家族が駆けつけ、俺は事情を聞かれるのでは…そう思っていたが、
大崎の両親は、俺に世話になったと礼を言っただけで詳しい事は何も聞かなかった。
大崎の家がどんな家か、両親がどんな人なのか…俺は、それまで聞いたことも無ければ興味も無かった。
でも、駆けつけて来た家族は、今俺が一緒に暮らしている家族と同じように普通に温かく。
大崎の事を本当に心配しているように見えた。

【なんだ。普通に家族じゃないか…俺が居なくても平気なんだ】
そう思いホッとすると同時に少しだけ寂しく。俺はそっと病室の前から立ち去った。
それから改めて礼を言おうと凜さんを探したが、凛さんの姿は見当たらず、
凛さんに付いていた人だけが残っていて、凛さんは兄さんと一緒に帰った…と教えてくれた。
そしてその人は態々俺を家まで送ってくれ。その帰り際に、とても優しそうな笑顔を見せて俺に言った。
「大切な人が無事で、良かったですね」


大崎との別れの日…チャンスの期限は目の前に迫り。今日も影は俺の肩口で囁く。
「どうした、うかない顔だな…」
「別に…そろそろ、期限なんだろう」
「そうだ、明後日の12時までだ」
「そうか、あと38時間の命…って言うか、もう死んでいるんだから期限なんて関係ないか」
「……」 影は黙ったまま、すーっと消えてしまったが、それは気のせいか薄くなっていたような気がした。


次の日、俺は学校に行くと一時限で早退する事に決めた。そしてそのまま病院に向かい。
途中和菓子屋に寄って、大崎の好きな豆大福を10個買った。
もしかした大崎の家族が居るのでは…と思いながら病室のドアをそっと開けると、
付き添っているらしい人の姿は無く、ベッドの上の大崎が所在無げに窓の外を眺めていた。

個室のせいで誰かが来なければ話す相手もいない。だから、ただじっと寝ているだけ。
それはそれで退屈を通り越して苦痛になるのでは…そう思ったら、大崎が少し可哀想な気もした。
なにしろベッドに固定した器具で、骨を牽引しているのだから寝返る事も出来ない。
トイレにだって行けやしない。昨日は導尿パックを下げていたが、今日はないところをみると、
多分、看護師さんに………。

俺は、その時の大崎の姿を想像したら…大崎には悪いが可笑しくなって思わずクスッと笑ってしまい。
それに気づいた大崎が、俺の顔を見ると驚いたように目を見開いて、
それからちょっと、はにかんだような笑顔を浮かべた。

「なんだ…今日は学校だろう?」
「うん…でも、体調が悪いって早退して来た」
「おいおい、それって…ばれたら、訓戒処分だろう?」
「そうかな? でも、ばれなきゃ体調が悪いと言うのが本当の事だよ」
「まぁ、そういう事だが…。お前、見かけによらずやる事が大胆なんだな」

大崎は意外そうな顔で言ったが、それでもその顔は何処となく嬉しそうで。
俺は、そんな些細な事で胸が一杯になる。そして自由になる上半身を僅かに捻りながら、
大崎は窓際に置いてある椅子を示し。俺は、ベッドを回り込むようにして反対側に移動すると、
「これ…お見舞い」
そう言って買ってきた豆大福を大崎の胸の上に置いた。すると大崎が俺の置いた袋を持ち上げ。
怪訝そうな顔でそれを見つめ、もう一度俺に視線を戻し…言った。

「見舞い? そんな物要らないのに…。でも、なんだ…これ」
「豆大福10個…好きでしょう? だって一度に3個も食べるんだからさ。大好きだよね。
こんな爺くさいものが好きだなんて、お前も変っているよな」
本当に…それこそ生きていた時と同じ口調で俺が言った途端、俺を見つめる大崎の顔が、
驚きの表情に変わり、それからなぜか泣きそうに歪んだ。

「お前! なんでそれを」
「もっと知っているよ、あんたの好きな物。豆大福は勿論珈琲も好き。でも、ブラックだよね。
あと、灰色の空、朧の月…暗い夜道。焼き鳥は塩味に一味たっぷりで、焼肉も塩。車よりバイク。
他にもいろいろ知っている。でも、知らなかった事が一つあった。あんたが、市原夕貴を好きだって事。
ううん、違う…な。市原夕貴があんたを好きだった…って事」
俺と大崎は暫し見つめ合ったまま互いの心まで覗きこみ、互いの想いを自分の中に取り込む。
そして大崎の口から出た声は少し掠れながらも、乾いた砂漠の上を渡る風のように真っ直ぐ俺に向かう。

「……お前…やはり、市原…か」
「うん……。どうして判ったのかな…。誰も気付かなかったのに…母親ですら気付かなかったのに。
あんただけが俺を呼んでくれた…市原…って。本当の名前を、呼んでくれた」
「そうか…なぜお前がそんな姿になったのか判らないが、お前の姿も声も、匂いも。
全て俺の心に刻み込まれているから…。お前が、たとえどんな姿になったとしても、
俺は…絶対にお前を見つけられる。だから、あの日お前の名前を呼んだ」

「そうなんだ…ありがとう。俺は、あんたのお陰で大切なものを見つけた。だから…今度はあんたの番だ。
笑ってくれよ。あんたがどんなに優しい顔で笑うか、その笑顔がどんなに安心を与えてくれるか。
俺はよく知っている。その笑顔を消してしまったら、俺は自分が生きていた意味もなくしてしまう。
だから…あんたが、ずっと笑っていてくれたら、俺は……」
心置きなく逝ける…。
俺はその言葉を呑み込むと、大崎に覆いかぶさるようにして寝たままの大崎をそっと抱しめた。

大崎は一瞬身体を強張らせ、それから俺の背中に腕を回すとギュッと俺を抱きしめた。
「ずっと、こうしたかった。お前を抱しめて…好きだ…と言いたかった。それが…やっと叶った。
市原…もう、何処へも行くな。今のお前が、幽霊やゾンビだったとしても、それがお前なら俺は愛せる。
たとえ、死に神が取り戻しに来ても離さない。だから…もう、何処へも行くな。俺の側にいてくれ」
低く囁くような大崎の声が、耳から身体の中に入り込んで俺を温かいもので満たした。

大崎と一緒の時間は、いつも優しさと穏やかさで満たされていたのに、俺は愚かにも、
生きていた時にはそれに気付かなかった。そして…人は、余りにも嬉しいと泣きたくなるのだと始めて知った。
「大崎、ありがとう。本当に、ありがとう…」
そっと口付けた大崎の唇は乾いて、少しかさついていたが…少しだけしょっぱい…優しい味がした。


寝たきりの大崎は食事をする事もままならないから、俺はご飯やおかずを箸やスプーンを使って、
大崎の口元まで運んでやる。
「食べさせてあげるから、あ〜ん、して」
俺が言うと、大崎は一度も俺に見せた事のない、まるで怒っているような顔をし。
「いいよ、自分で食えるから…」
そう言うと少し顔を赤らめた。俺にはそれがめちゃくちゃ新鮮に見えて嬉しくなる。そして、

「いいって、汁が垂れたらまずいでしょう。大人しくいう事きいてよ」
箸の先を大崎の唇に軽く当てると、俺は自分の口を開け、「あ〜ん」もう一度言った。
すると大崎が、なんとも言えない表情で俺を見つめ。それからばくっと箸に喰らいつくと、
摘んでいたカボチャの煮たのを、むしゃむしゃと噛みながら、
「お前、箸の使い方下手だったろう。スプーンにした方が良いんでないか?」 妙に甲高い声で言った。

照れている大崎は、いつもの男らしい大崎とは別人のように可愛らしくて、
俺はなんとなく新しい発見をしたような気がして、益々嬉しくて、楽しくて……。
そして…出来る事ならずっと、大崎が元気になって退院するまで…こうして世話をしてやりたい。
なんて事を思ってしまう。それは、決して叶う事のない願いなのに。
それでも俺は、一分でも一秒でも長く大崎の側にいたい…と願う。

昼食が済むと安静時間になり、看護師が来て熱を測り点滴の針を大崎の腕に刺す。
俺は大崎に「また来るから…」そう言うと病室を後にした。その時大崎は俺の背中に向かって、
「市原…俺の方こそお前に礼を言うよ。ありがとうな。お前がいたから、俺は留まっていられた。
堕ちないでいられた。だから…俺にはお前が必要なんだ。 お前と一緒に生きて行きたい」
やけに神妙な声と口調で言った。

俺は…そんなプロポーズめいた台詞、こんな所で、こんな時に言うかよ。
そう思いながら振り返る事が出来なかった。振り向けば涙を見られてしまうから。
帰りたくないと言って、抱きつきたくなるから。大崎に……これが最後だと気付かれてしまうから。

「…うん、絶対…どんな姿でもあんたの側にいるから…約束だよ」
そう言いながら俺は、これで大崎は二度と会う事もなければ、話す事も無い。声も聞けない。
顔を見る事もできない。そんなの嫌だ…死にたくない。ずっとずっと、大崎の側にいたい。
もう死んでいるのに…初めて死にたくないと思った。


夜、鏡に写った自分を見て、おかしい…と思った。影が薄くなっているだけでは無く、
俺の形も透けているように見えた。そして、何となく判ったような気がした。影は…俺の魂だったのだと。
俺の消える時間が迫っているから、魂も少しずつ薄くなっているのだと…。

明日は凛さんの処にお礼に行って…それで、する事は全部済む…それまで、何とか持って欲しい。
そう思っていたのだが、その心配は朝になってみるともっと深刻になっていた。
俺を形作る輪郭が、ぼやけてはっきりしなくなっていて、この姿では外を歩く事など出来そうも無かった。
だから俺は、外に出る事を諦めて凜さんへの礼は電話で済ませる事にした。

「すみません、ちょっと人前に出られない状況なので、電話でお礼を言います」
俺の言葉で、凛さんは何かを察したのか、
「いいよ、気にしなくて。僕は、前のイッチーも好きだけど、素直で一生懸命な今のイッチーも大好きだよ。
僕は、イッチ―の事忘れないからね……だから、僕の事も忘れちゃ駄目だよ。
いつか会えるから、その時まで絶対忘れないで…待っているんだよ」
凛さんの声が少しずつ遠退き、靄がかったように目の前が白くなって…漂っているみたいになって。

あぁ、やっぱり…眠いんだ。 ずっと、寝てなかった…んだ…俺…。
大崎…嘘を言ってごめんな。でも…お前に会えて幸せだった。いろんなこと…たくさん…ありがとう…。


「はて、どうしたものやら……困ったの」
惚けたような声に目を開けると、いつかの爺が目の前にいて。やはり惚けた顔でしきりに首を捻っていた。
見ると其処は生き直しの始まりの場所で、俺は此処に戻って来たのだと判った。
「爺さん…チャンスを与えてくれてありがとう。折角の期待に添えたかどうか分からないけど、
俺は、思い残す事はないから…あんた等の決めた行先が何処でも、それに従って行くよ」
俺は素直に心からそう言えた。

「そうか、それは良かった…が、実は問題が起きてな、ちょっと困っとるんじゃよ」
俺の決心とは反対に、爺が如何にも困り果てたような顔であごひげを扱きなら俺を見つめた。
如何にもお前絡み…そんな様子で見つめられ、俺は生き直しで何か不味い事でも仕出かしたのかと、
いろいろ考えてみるが、これと言って思い当ることも無くて。それでも一応爺に聞いてみる。
「問題? それって、俺に関係あんのか?」
すると爺が、待っていましたとばかりにとんでも無い事を言い出した。

「そうなのじゃよ…お前さんの行き先が無くなってしまったようなのじゃ。
お前はそれなりに、人として大切なものを見つけたようなので下に行く必要はなくなったのじゃが。
お前の行くはずの処に、別の人間が入ってしまったようで…空きがないのじゃよ。
さて、困った…どうしたら良いものかの…本当に困った…さても困った」
爺は本当に困ったように、困った、を繰り返した。

「はぁ? 空きがない? それって…一人一部屋みたいなものかよ」
「そういう訳でもないのだが、やみくもに押し込める。 という訳にも行かないものでな」
爺の言う訳の解らない困った事情が俺に理解出来るはずも無く、
だからと言って何を如何言って良いのかも判らず。俺はただ、思った事を言った。
「………訳わかんねぇ」

「つまりじゃ、自分の行くべき道は、お前さんたちの目には見えるはずなのじゃよ。
下に行く者には下る道しか見えない。上に行く者にはそれぞれに上に繋がる道が見える。
その道が本来お前さんたちの進むべき道なのだが、一度人が入ると道は閉じられ。
再び開く時は、誰かが此処へ来た時だけなのじゃよ。

今、お前さんは此処にいる。それなのに道が開かないと言う事は…誰かがお前さんの為に開いた道に入った。
そういう事になるのかの。それで…お前さんの眼には、どこかへ続く道が見えるか?」
爺に言われ、俺は辺りを見回すがただ無限ともいえる空間が広がっているばかりで、
道と思われるようなものや、入口らしき物は何処にも見えなかった。

「……。なんも、見えねぇ」
「だろうな…当然じゃ」
「当然って…。あ! だったら、その間違えた奴の所に俺が入れば良いんじゃないのか?」
俺は突然閃いたその考えを、良いアイデアだろう? とばかりに爺に言う。
すると爺は、困った顔を辛気臭い顔に変えて、うぅぅ〜ん…と一頻り唸ってから、偉そうに言いきった。

「見えれば入れるのだが、見えなくてはどうにもならん」
「じゃぁ、俺はどうすんだよ。此処に、こうしているのか? これじゃ、地縛霊になっちまうだろう」
言いながら俺は、地縛霊がどんなものか知らないが、たとえば大崎の姿が見えるとか、
大崎の周りをうろちょろ出来るとかだったら、地縛霊でも浮遊霊でも構わないと思った。

だが、こんな明るいのか暗いのかも判らなければ、脚が地に着いているのか浮いているのかも判らない。
目に映るものも無ければ音も無い。正直言って、はっきりとした自覚や感覚の無い場所で。
何処にも行き場が無くたった一人きりで、留まっているのは嫌だった。それなのに爺は、

「すまんな…。だが、どうにかしてやりたくても手立てがないのじゃよ。まぁ、その侘びと言ってはなんだが、
お前さんの願いを、ひとつ叶えてやるからそれで手を打たんか」
と…どっかのこすっからい商売人みたいな事を言い出し。全知全能と言うわりには神さんという奴は、
本当にいい加減で、そして思っていたより何も出来ない奴…なのだと知った。

そして俺は、折角の申し出を受けても断っても同じならば…と、たった一つの願いを口にする。
「だったら、あいつを…大崎を幸せにしてやってくれよ。大崎がいつも笑っていられるように。
あいつが本当に幸せだと思えるようにしてやってくれよ。そうしたら、俺はずっとこのままで良い」
俺の言った願い事に、爺はほんの少しの間考えるような顔をしていたが、真っ直ぐに俺を見つめると。

「……判った。叶えてやろう。お前の言う人間が、心から幸せだと思える未来を与えてやろう。
それで、お前に悔いはないのか? たった一つの願いに、自分の事を望んでも良いのだぞ。
それをしないで、あの人間の幸せを望んで…お前に後悔は無いのだな」
さっきまでの爺とは別人のように、凛とした声で言った。


「どうした…夢でも見ているような顔して」 影はやはり色濃く、口だけで俺の耳元で囁く。
「期限…過ぎているよな」
「あぁ、過ぎている…それが、どうした」

「だって、俺…消えてないし、あそこに留まっているはずじゃ…」 俺が鏡に向かって、口だけの影に言うと、
「お前の願いが叶えられたのだ。あの人間が笑っているために、お前は此処で生きなければならない。
お前たちは、互いに互いの幸せを望んだ。だから、今お前は此処にいる。
あの人間を幸せにしてやれ…そして、あの人間に幸せにしてもらえ。二人で、幸せになれ」
影はそう言うと、眩く光り輝くものになり消えてしまった。

此処で…あいつの側で…俺は…生きて行けるんだ。

「母さん! 僕、今日は頭が痛いから休む! 学校に電話しといて」
俺は頭が痛いと言いながらいつもより元気な声で母に言うと、急いで二階に上がり着替える。
そして、父が出掛け、妹が出掛け…母が出掛けるのを待つが、
時間の経つのがこんなに遅く感じた事はなかった。そして、とうとう母がパートに出るのを待っていられなくて、
こっそり家を抜け出すと、大崎の元へとまっしぐら駆け出した。

勿論病院の面会時間は決まっている。でも…そんなもの気にしない。
だって一分でも一秒でも早く大崎に…大好きな人に会いたいから。


ドアを思いっきり開け…驚いたようにこっちを向いた大崎が…俺を見て笑う。
全てが始まる一瞬。俺の進む道が其処に在り…その胸めがけて広げた腕の中へ飛び込んでいった。


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