近づくほどに(前編)  沢田 基(もとい)× 桧山 深紀(みの



僕は男に恋をした。それはある日突然僕の中で目覚め、気付いた自分の心。

あの日…ペンが落ちなければ
あの日…ふと横を見なければ
あの日…あれを目にしなければ

僕は何も気づかず、あの日以前の僕でいられたのだろうか。それとも、いつかは気付いたのだろうか。
そして僕は、初めて気づいた恋を、気付くと同時に失った。

情報の時間は、自由に席を決めて良い事になっていた。誰も座っていない席を選んで先に座ってしまえば、
誰の隣にするか選ぶ必要は無い。後で隣に誰かが座っても、選んだのはそいつだから…。
桧山深紀はそう思って、窓際の後から二番目の席を選んで座った。

「此処いいか? 座っても」
その生徒はそう言うと、桧山の返事も待たず乱暴に椅子を引くと、僕の隣の席にどっかりと腰を下ろした。
そしていきなり、机を前に押しやりぶつぶつと文句を言う。
「なんで此処だけ、机がくっついているんだ? せまっ苦しいな」
それは、桧山に言っているようにも聞こえ、独り言を言っているようにも聞こえた。

だから桧山は返事を返すでもなく、黙っていると、
「なぁ、何でだ?」 今度ははっきりと、桧山に問いかけてきた。 
【そんな事を僕に聞かれても…】
桧山はそう思ったが、其処まで言われると、返事をしない訳にもいかないと思い答える
「配線の都合じゃないのかな…」 するとその生徒は、なぜか嬉しそうな声で言った。

「そうなんだ…桧山は何でも良く知ってるな」 
その言葉に、桧山は思わず隣に座った生徒の顔を見てしまった。
見た事もない顔。いや、正しくは同じクラスではないと言うべきなのだろうが、
どちらにしても、桧山の知らない生徒である事だけは確かだった。
それなのに自分の名前を知っている? だから思わず、なんで? が口に出てしまった。

「え? 何で僕の名前…」
すると、その生徒は別にたいした事でもない、というような顔で
「別に不思議じゃ無いだろう…同じ学年なんだから」  と言った
確かに同じく情報の授業を受けるのだから、同学年に違いないとは思うが
単位制を取り入れているこの学校では、稀に他の学年の生徒も、紛れていたりする事もあった。

だが桧山が驚いたのは、自分のクラス以外の生徒が自分の事を知っている。その事実だった
「そうだけど…。でも、僕は君の事…」
「俺は、一組の沢田基(もとい) よろしくな」
沢田と名乗った生徒はそう言うと、桧山の顔を見てニッと笑顔を見せた。
その時、沢田の唇から覗いた右側にだけある犬歯が、妙に桧山の目に焼きついて残った。

それから沢田基は、情報の時間はいつも桧山の隣に座り、
桧山が遅くなった時でも、彼は隣の席を桧山の為に空けておいてくれた。
それが何度か続くと今度はそれが当たり前のようになって、しぜんと話をするようになる。
やがて桧山と沢田は、情報の時間以外でも一緒にいる事が多くなり、
気がつくと、クラスは違っても仲のよい友人と呼べるようになっていた。

「桧山は、何でも良く知っているよな」
沢田は、最初に桧山に言った言葉をよく口にした。でも桧山は、沢田と話すようになって、
初めて自分を振り返ってみると、自分が、普通に桧山達の年代の子が知っているような事や、
興味の有る事など。教科書で習う以外の事を自分は知らない…そう思った。

沢田に『桧山は、何でも知っている』 と、言われる度に、
自分の世間知らずを指摘されているような気がし…だから、それをそのまま言葉にする。
「そんな事ないよ…沢田君の方がいろんな事を知っているじゃないか。
なのに、そんな事言われたら…恥ずかしいし、自己嫌悪に陥っちゃうよ」
すると沢田は、ちょっと驚いたような顔で桧山を見つめ、それから、にっと笑って言う。


「そりゃ俺は、くだらない事だけは沢山知っているけどな。けど、やっぱお前は、
俺の知らないことをもっと沢山知っているよ。俺達は、いろんな意味で正反対なんだろうな
俺はお前と話していると楽しい…だから、桧山とはずっと友達だ」
沢田のその言葉は、桧山に…自分達はお互いを補い合える友人。
そう言ってくれたように聞こえて…桧山もまた、彼とはずっと友人でいたい…そう思った。
思えばその頃から、沢田は桧山にとって特別な人になっていたのかも知れない。

桧山の母親は結構教育熱心な人で、小さい時から桧山を塾に通わせ、当然小学校は私立を受験させる。
そう決めていたらしい。それが、父親の転勤で地方に引っ越すことになり。
止む無く小学受験は諦 め、中学受験に望み を託した。だが、父の転勤が地方の次は海外赴任に決まり、
母は桧山の受験を理由に、父に単身を望んだが父はうんと言わなかった。

結局父の言葉に逆らえず…辺境の支社に5年も赴任していたせいで、すっかり帰国子女になってしまった桧山は、
12歳で帰国した時には、国語の授業すら付いていくのがやっとの有様で、大凡、受験と は縁遠い状況に なっていた。
それでも、なんとか今の高校に合格する事が出来たのは、日本に帰ってから再開された塾通いの賜物なのだろう。
そのおかげで、桧山の生活は勉強一色に塗りつぶされ、世間の若者とはかけ離れた存在の桧山は、
中学でも、親しい友人と呼べる友人は一人もいなかった。だから…沢田は桧山が始めて得た、たった一人の親友だった。

不思議なもので、沢田と親しく話すようになると、今までそんなに親しくなかったクラスの生徒達とも馴染めるようになって。
桧山の高 校生活は一変した ように感じられた。事実先生からも、最近楽しそうだな…などと言われ。
それも全部、沢田のおかげだ…彼に感謝したい。桧山はそんな気持ちで一杯だった。そしてあの日…

その日桧山は、前の授業の提出物に手間取り、コンピューター室に入ったのは、
授業開始時間ぎりぎりになってからだった。
いつものように、沢田の隣に…そう思って窓際に行くと、桧山の席…つまり沢田の隣には、
見知らぬ女子が座っていた。その女子は、桧山を見ると、

「席、自由だよね。いい席は早い者勝ち。桧山君は、其処空いているよ」
そう言って、自分の斜め前の席を指さした。それに対して桧山は何も言えず、
「えっ…う、うん」
返事だけすると、女子の指さしたその空いている席に座る。
その時、沢田の顔をチラッと見たが、沢田は黙ってブラウザを覗き込んでいた。

桧山は、授業が始まってもなぜか斜め後の席が気になり、隣の生徒のキーボードを叩く音が酷く耳障りで。
何か色々と気になって…いつもの ように作業に集 中出来きなかった。
当然のように、タイピングの結果は今までで最低の数字を表し…そして、机の端に載せてあったペンが落ちた。

それを拾おうとして、身体を屈め指先がペンに触れた時、どうしてなのか…桧山の顔は斜め後の席に向いた。
その時、桧山の目に映っ たのは、机の下で 握り合っている二つの手。沢田と女子の手だった。
一瞬、心臓がドクンと音をたて…それからドキドキと拍を刻み。桧山が、ペンを拾って起き上がるとき、
目の端にみた沢田と女子は、まるで桧山の見た光景が嘘だったかのように、何気ない素振で画面を覗いていた。

あれは、どういう事なんだろう。手を握り合っているという事は…もしかして……。
そう思った時、桧山の中に沸き起こった感情は、驚きや、羨望とは違う、どす黒いもの。
それは彼女にだけ向けて放たれ、桧山にはそれが、嫉妬とか憎悪に近い禍々しいものの様な気がした。
どうして…彼女にそんな感情を抱く。どうして彼には…。後は授業中その事で頭が一杯になり何も考えられず、
授業が終わって沢田 の顔を正面から見 たとき…涙が出そうになった。

【その席に僕以外の人を座らせないでよ】
そう言いたいと思った。そして気付いてしまった。あぁ、そうか…自分は沢田が好きなんだ…と。
そして、気付くと同時に、桧山の想いは絶望に変わった。
【沢田は男だ。そして自分も男。絶対に口に出さない想い。叶うはずのない恋】

その日以降、沢田の隣はあの女子、田中真理菜の指定席になり。桧山は彼らの姿の見えない、
前の方の席に移動し、沢田に背中を向けた。

「桧山、お前最近俺に冷たくないか?」
沢田は、桧山を見かけるとそう言って笑った。相変わらず、友人として気さくに声をかける沢田に
「そう? 別に今までと変わらないと思うけど…」
答えながら笑う桧山の顔が、泣きそうに歪む。辛い…悲しい…苦しい…それでも好き。そう言って心が涙を流す。
初めて出来た親友は、初めて好きになった人となり。忘れることのできない…たった一人の人になった。


―9年後―

どうしても集計が合わず、手元の伝票を画面と照らし合わせている桧山に向かって、課長の笠原が声をかけた。
「桧山君、今日はもう良いから早く帰りなさい。明日の出発は、朝一番の始発なんだろう?」
いつもなら、部下の残業は当然…そんな顔でさっさと帰る課長が珍しい…と思いながら、
「はい、ありがとう御座います。後残っているのはこれだけなので済ませてしまいます」
そう言うと、桧山は手に持っている伝票をかざして見せた。すると、笠原は幾分神妙な声で、

「そうか、悪いな。それと…いつも君に行ってもらう事になって、すまないと思っているよ。
先方から、どうしても君に来て欲しいって言われると、断れなくてな」
等と、桧山の機嫌をとるような事まで言い出す。
それも、笠原自身の保身のためだろう…と判ってはいたが、桧山は笑みを浮かべて答える。

「いいえ、そう言って頂けるのは嬉しいことですから…昼前には向こうに着きたいと思っています。
出来るだけいい方向に話が纏まるように、何とか頑張ってみます」
「そうか、なんとか頼む。あの方はうちの顧客の中でも、最高のお客様だからな。
上層部も今回の件には期待している。もし、上手く纏まれば君の功績にもなるからな。よろしく頼むよ」
笠原はそう言って桧山の肩を軽く叩くと、意味の解らない笑みを浮かべた。

「はい…出来るだけ…」
桧山はそう言いながら、明日会う予定の人物の事を思うと、正直自分の気持ちが重く沈んでいくのを感じていた。

今回、世界的規模でのサミットとそれに随行したイベントの開催地が決まり、其処に建設するホール。
他に宿泊施設の予定地が一資産家の私有地だった為、その売却によって得た莫大な金を、預金として何とか獲得する。
それが桧山の勤める銀行の絶対と言っていい目的だった。

何しろ桁が違う上 流動的な金ではない。銀行としては喉から手が出るほど欲しい預金だった。
その資産家というのが、桧山が明日会う予定になっている三ノ輪耕造で、桧山の勤める銀行の顧客でもあった。
「全額定期として預けても良いが、条件がある」
前々回会った時、三ノ輪は桧山にそう言った。そして桧山は、その言葉とそう言った時の三ノ輪の表情に嫌な予感がした。

「条件…。勿論上司と相談した上で、出来るだけの事はさせて頂きます」
「そうか。だが、上司と相談出来る事かな?」
三ノ輪が意味ありげな顔で薄笑いをうかべて言う。それが益々桧山に不快感を感じさせたが、
「はい? それはどう言う意味で…」
桧山はそれを押し隠してさりげない笑みを浮べ、さりげない口調で尋ねた。
すると三ノ輪の口から、予感をを現実のものに変える答えが返って来る。

「私の条件は…君個人の意思でどうにでもなるものなんだがね。
つまり…君を私の自由にさせてくれたら、土地を売却した金は、真っ直ぐ君の所の銀行に行くようにしよう。
その金は、私にとって当面必要な金ではない。おそらく、預けたままで直ぐに引き出されることは無いだろうな」
何となく予想していた事ながら、直接言葉にされると、やはり幾分の動揺を感じないわけにはいかなかった。

男の自分に、一夜の相手をしろと言うのか。それとも、預金の担保になれと言うのか。
三ノ輪の真意までは解らなかったが、言っている意味とその光景だけは想像がつき…不快は嫌悪に変わる。
「……。私を自由に…それは、身体の事を意味しているのですか」
そのせいか、問い返す言葉は単刀直入になり声が少しだけ強張って聞こえた。

「まぁ、そういう事だな…何十億の預金と引き換えになるか? もし承諾してくれるなら、
預金についた利子は、君の小遣いにすれば良い。他にも欲しいものがあるなら、何でも言って良いんだよ」
三ノ輪は平然と桧山を預金の担保にしたいと言い、それは金を預かっている間は三ノ輪の玩具になると言う事でもあった。
それに…今時利子なんて無いに等しいが、それでも何十億もの預金ともなれば
その額は、雀の涙では済まない金額になる…当然税金もついてくる。それを、小遣いに等と……。
三ノ輪にとっては微々たる金額だろうが、それでも一縷の望みを…と、桧山は試みるように言った。

「そんな事をなされば、分離課税は持ち出しになりますよ」
だが三ノ輪は、そんな事は承知だと言いたげな顔で、座っていたソファーの背にゆっくりと身体を預け、
「そうだな…。だが、その程度の金で君を自由に出来るとしたら安いものだよ」
そう言うと余裕の笑みで笑った。確かに金利を無いものと考えれば、分離課税などスズメの涙なのだろうが、
まさか、そこまで言われると思ってもいなかった桧山は、一瞬の間をおいて。
それから、営業用の笑みを浮かべると…問答さながらに言い返した。

「それでしたら買いかぶりですね。私にはそれほどの価値はありません、三ノ輪さんに後悔させるだけです。
それでも、ありがたい冗談として受け止めさせて頂きます」
「そうか、まぁ、金が入るのはまだ先だからな、ゆっくり考えなさい」
それが、前々回三ノ輪幸造と会った時の会話だった。

三ノ輪は冗談を言っているのではない…もし、桧山が断れば預金は他行に行くだろう。
悪くすると、現在預かっている金も流れてしまうかも知れない。
三ノ輪という男は、平気でそれが出来る男だと、桧山は思っていた。
面倒な事になった…何とか駆け引きをもって…そうも考えたが、所詮、海千山千の兵。
自分ごとき若造に何とかできるとも思えず、断れば辞めなければならない…そんな気がした。


気分が滅入っていると、自然と俯き加減になるのだろう。歩いていて、いきなりドスンと何かにぶつかり、
「前を見て歩かないと、危ないぞ…」
男の声が聞こえて、檜山はぶつかったのが人だったのだと判った。
「あっ、すみません」 
言いながら桧山は、男の声が自分の記憶の中に留まっている声と重なるのを感じた。
【え! 今の声……は…】
慌てて振り返ると少し先を行く男のその後姿だけが、一昔前にタイムスリップしているような錯覚を覚えた。

七分ズボンに脚絆を巻き地下足袋を履いている男の肩には、文字入りの半天。おまけに頭には手拭いで鉢巻。
なのに、威風堂々とさえ見える一人の男の背中が、記憶の中にある制服姿の背中と重なって見えた。
あの頃より、一回りは大きく逞しく見える背中に、もしや! そう思った途端、
桧山は、その背中に向かって駆け出していた。

そして、何人かの人とぶつかりながら、やっとその男の背中に辿り着くと後ろから男の腕を掴んだ。
男の硬い筋肉に覆われた腕は、桧山の手に余った…が、手は確実に腕の持ち主を捉え。
いきなり腕をつかまれた事で何事かと驚いたのだろう…男が振り返る。
其処に見たのは、日 に焼けた褐色の肌こそ違っていたが、忘 れようとして忘れられなかった初めて好きになった人の顔。

「沢田…」  その名前を声に出した途端、目頭が熱くなった。
「? 桧山? お前桧山か?」 男の唇が開き、其処から見えたのは右側だけにある犬歯。
「うん…。やっぱり、沢田だった」  
言いながら涙が溢れた。沢田はちょっと驚いたような、困ったような、どっちともつかぬ顔で、
「……。ばか、泣くなよ…」
そう言うと、ポケットから余り綺麗でもないハンカチを取り出し、それを桧山の顔に押し当てる。
そして、肩を抱くようにして道の端へといざなうと、今度は懐かしそうな顔で桧山を見つめ、肩に置いた手をそっと外した。

少しぼさぼさの髪が、鉢巻のせいで上のほうで彼方此方に飛び出し、同世代のお洒落な若者からは程遠いはずの姿が、
桧山にはあの頃よりかっこ良く見えた。そしてその目は、あの頃と少しも変らぬ優しさに溢れているような気がした。
「良く判ったな、俺だって」
「うん、さっきぶつかった時、声で…」
少し見上げるようにして、沢田の顔を見つめたまま桧山は答え、沢田もまた桧山の顔を見つめたまま…ふたりは佇む。

夜とはいえまだ宵の口の今、道行く人の数はまだ多い。それでも、帰りを急ぐ人の目は二人に注がれる事はなかった。
「あぁ、さっきぶつかったのはお前だったのか…悪かったな、お前だと気付かなくて」
「ううん、僕がぼんやりしながら歩いていたから」
沢田のハンカチで、目元を拭いながら話す桧山を見つめていた沢田が、次に発した声は少しだけ不満の色を含んで聞こえた。

「桧山…お前日本に帰って来ていたのか? 俺は、お前が留学してそのまま向こうの会社に勤めたって聞いていた。
それなのに、こうして帰っていたのなら、電話の一本でも欲しかったよ」
「ゴメン…卒業して向こうの銀行に勤めたのは本当なんだ。でも…去年、こっちの支店に派遣で来る事になった。
沢田に連絡しようか迷ったんだけど…つい、しそびれちゃって悪かった。ごめん」
本当は、しそびれたのでは無かった。どうしても出来なかったのだ。何度も何度も、受話器を持ち上げて。
その度にボタンを押す事が出来なかった。

会いたい。でも、会ったら…多分自分が抑えられなくなる。沢田には、古い友人としてなんか会えない。
桧山には、それが判っていたから…電話をする事が出来なかった。
なのに、さっき声を聞いてしまったら…会いたい…その想いは桧山の意志を無視して、足を動かした。
そして出会った愛しい人は、桧山の失った恋を打ち消す事も無く止めようもない想いに変える。

「そうか…それじゃ、又向こうに帰るのか?」
「多分…あと何年かすれば…」
「なぁ桧山…お前、休みとか時間取れないか? 出来たら、ゆっくり話がしたいと思ってさ…無理か?」
「僕は明日出張で、朝が早いんだ。だから…帰って来たら連絡するから、携帯の番号教えてもらって良い?」

「あぁ、必ず連絡しろよ。それと、お前のも俺に教えろ」
「うん、必ず…絶対するから…待ってて」
互いの番号を教えあい…それじゃ、と言って別れようと思っても、心が別れたくないと叫ぶ。離れたくないと泣く。
沢田を見つめる桧山の目は、涙を止める術を忘れてしまったかのようにはらはらと頬に零れ落ちて、
想いと同じ……桧山自身にも止める事が出来なかった。

「桧山、泣くな…泣かないでくれよ」 
そう言われ…唐突に抱きしめられた。少しだけ汗の匂いと、埃のような匂いの混じった沢田の腕の中で、
沢田の肩に羽織った半天が、人の目から桧山を隠す。今だけは、沢田と自分だけの小さな空間がこの世の全て。
愛しい人の腕の中で、このまま時が止まれば良い…桧山はそれだけを思い涙を零した。

「必ず連絡よこせよ…良いな!」
何度も念を押され、何度も頷きながら…縋りたくなる気持ちを叱咤し奮い立たせた桧山の笑顔が、泣きそうに歪んだ。