愛・そして罪(後編)


「止めろ! やめてくれ」
「どうして? 本当の事じゃないか、僕は今でもはっきり覚えているよ。
あの日貴方たちは、他の子と間違えて僕を誘拐した。そして、身代金を要求しようとして初めて人違いに気付いたんだよね。
だって誘拐したつもりのその子は、ちゃんと家に戻っていたんだから…吃驚するよね。
間違いに気付いた貴方達は慌てた。でも…そこでもう計画を続行しようという気持ちは、無くなったんだよね。

だって、未成年の悪がきが二三人でしでかした、半分ゲームみたいな誘拐だったから。
欲しかったのは遊ぶためのはした金だったんでしょう? だから、簡単に諦めて計画を破棄した。
それなのに…貴方は僕を帰すことはしなかった。 ねぇ、本当はどうだったのかな…僕を開放する予定だったの?
それとも殺すつもりでいたの? 僕のいた施設の園長は、子供が行方不明になっても、
たとえ殺されていたとしても死体でも出てこないかぎ り警察には届け無い。
だって園長には、警察沙汰になったら都合の悪い事が沢山あったからね。だから…僕は、どっちでも良かったんだ…。

けど…貴方は僕を解放しないで監禁した。殺さない代わりに……犯し続けた。
それなのに不思議だよね。初めは嫌だった貴方とのセックスも、慣れてきたら嫌ではなくなった。
回を重ねるにつれ気持ち良いのが判ってきて、身体があれを欲しがるようになった。それに…貴方は優しかった。
外には出してもらえなかったけど、ちゃんとご飯も食べさせてくれた、勉強も教えてくれた。側にいてくれた。

それまで誰にも必要とされた事のなかった僕は、貴方に求められる事が少しずつ嬉しくなって。
僕はあなたにとって要らない存在じゃない。そんな気がして、僕は貴方に抱かれる事が嬉しかったんだ。
ずっとあのまま、貴方と一緒に居られる。あの家で貴方と二人で…そう思っていたのに…。
貴方は突然僕を捨てた。それも…紅葉を見に行こう…等と言って僕を喜ばせ、
見も知らぬ山の中に連れて行って、置き去りにして消えてしまった。

そして僕は貴方を探して歩き回り、歩きすぎて迷い、脚も動かなくなった頃になってやっと気付いた。
貴方は、一番残酷な形で僕を開放したのだと。その瞬 間、嬉しくて幸せだった短い時間が絶望に変った。
紅葉など何処にも見えない山の中に横たわったまま夜を過ごし、昼を過ごし。
やがて夜か昼かも判らなくなって、気が付いた時僕は、僕を助けてくれた人の家で寝ていた。
その時から僕は、自分の名前も何もかも…あなたが棄ててくれた僕自身を捨てて新しい自分になった。

ねぇ、解るかな。三年以上もの間、日に何度となく抱かれ続けた身体は、男が欲しくてあそこが疼くんだよね。
毛も生え揃ってない子供が、自慰も知らないうちに尻に男を咥えて射精することを覚えちゃったからさ。
でもお陰で、自分の欲しいものが金にもなる事を知った。一石二鳥ってやつだよね。
だから…それから後は自分の身体を餌に、変態エロ親父どもを誑し込んで生きてきた」
男の、岩本を責めるでもなく自分を貶めるでもない、ただ他人を語るかのような淡々とした口調は、
罵詈雑言で責められるより、鋭く尖った無数の針となって岩本の胸に突き刺さった。

「…この家の主もその一人だと…」
「そうだよ…爺は今までの奴らと違って、本気で僕に惚れていたからね。
それに、爺には家族がいなかったから、僕を養子という形にして一生自分の側に繋いで置くことを考えたのさ。
どう? この家は、あの日貴方達が誘拐しようとした、あの子供の家より立派だと思わない?
家だけじゃないよ、爺は他人を信用しなかったからさ。現金は全部地下の金庫に隠してある。それに有価証券もね。
合わせたら幾らになると思う? それが全部自分のものになるとしたら…どうすると思う?」

男の口から出た言葉は…岩本自身が犯した罪と同じ罪を仄めかす言葉。
自分の撒いた罪の種が芽を出した。その事実は、僅かばかりの不安を蹴散らす確信で岩本に迫った。
それなのに…大人になって、あの頃と同じではないはずの男の顔があの頃の幼い顔と重なり、
抗っても抗いきれなかった過去に引き戻す。

あの日、戯言が暴走し勢いでしでかした誘拐が人違いの失敗だったと判った時、少年は解放する予定だった。
元よりその誘拐は仲間の一人が、地元のチンピラに強請られた200万程度の金を調達する手段として言い出した計画。
そして、誘拐する予定の子供は話の張本人の異母弟で、義母と父親への反抗も手伝った身内の誘拐。
身代金は300万とし、仮に失敗したところで親に泣き付けばどうにかなる。そんな安易な考えが何処かにあった。
それに…親や兄妹に対する歪んだ感情…それが、あの頃の岩本には痛いほど解る気がして…止めもせずに話に載った。

計画では、言い出した本人は家に待機し親が警察に知らせず金を払うよう説得する。
だから、残った仲間三人で学校帰りの弟を待ち伏せし…当時空き家だった岩本の祖父の家に連れてくる。
その予定だったのだが…着衣とうろ覚えの顔を頼りに誘拐してきた子供は別人だった。挙句にその事を知ったのは、
「誘拐したはずの弟が帰って来たけど、どうなっているんだ?」 計画を言い出した本人からの連絡で、
初めて連れてくる子供を間違えた事に気付いた。その途端、誘拐計画は簡単に終止符を打った。

そして、連れてきた子供を如何しよう…と、皆で頭を突き合わせた時、誰かが言った。
「こいつは、ちょっと寄り道をしただけって事にしようぜ。それが無理なら……しかないな」
その言葉に、岩本はなぜか自分から少年の説得をかってでた。身 代金を要求した訳でもなければ、怪我をさせた訳でも無い。
それに…自分たちも、マスクとサングラスで顔もはっきりとは見られていない。
だから…ちょっと友達と遊んでいて、いつもより帰りが遅くなったって事で、言い聞かせれば大丈夫。
こんなことで犯罪者になるなんて、分が悪すぎる。
岩本のそんな言葉に、他の二人はホッとしたような顔で頷くと、何事も無かったかのように鼻歌交じりで帰って行った。

それから岩本は、少年の手足を縛っていた紐を解くと、それまでしていた目隠しと猿ぐつわを外し自分の顔を少年にさらした。
岩本にしてみれば、ほんの数時間拘束しただけだから謝って帰せば良い。その程度の考えだったのだが、
【犯人が顔を晒した=口封じで殺される】 少年はそう思ったのか、怯えたような顔で岩本を見つめると。
「僕は、殺されるの? 僕は、貴方達にとっても要らない存在なの? 誰にも必要とされない……」
そう言うと黒い瞳が悲しげに潤み、今にも零れそうな涙を瞬きで隠した。

小さな身体を更に小さくして、膝を抱え肩を震わせている姿が、消え入るような小さな声で言った言葉が、
自分の死を嘆くよりも、誰にも必要とされない存在…それを嘆いているような気がし…目の前の少年と自分が重なった。
途端、岩本の心の奥底にあった暗く澱んだものがゆっくりと動き出し、言葉には出来ない衝動が渦を巻きはじめた。
その渦は徐々に速度を増し、眩暈を引き起こし…そして岩本は、まるで何かに縋るように少年の小さな身体を抱きしめた。

自分の背中に回された少年のか細い腕が、岩本に本当の誘拐犯になろうと決めさせたのかも知れない。
それでも、無理やり肉を裂き、血を流させ…その傷の癒える隙も与えずまたも押し入る。
そうやって抱き続けた幼い身体は、やがて快楽を知りそれが全てになった。その時になって岩本は、
初めて自分のした事を後悔した。だが既に、自分が身動きひとつ出来ないほど、少年に絡めとられている事にも気付いた。
少年は自分であり、自分は少年。血を流すのも快楽に打ち震えるのも少年でありながら…同時に自分でもあった。

後悔と、どうにも出来ない苛立ちに塗れ、際限なく少年にのめり込んで行く自分を横目に見ながら、
恨んで欲しい、憎んで欲しい…決して許されてはいけない…そう願った。
なのに…少年の無防備な笑顔を見るたびに、優しい言葉を聞くたびに心が揺らぎ。全てを忘れる為に少年を抱き続けた。
そして自分は、多分…死ぬことでしか少年を解放できない…岩本はそんな気がしていた。

だが、そんな螺旋に終止符を打つ日が来た。「家は弟に…」 その言葉を残し、突兄が然家を出てしまったから…。
親は四方八方手をつくして探したが兄の行方は杳として知れず、嘆き悲しみ絶望した親は…今度は弟に目を向けた。
その頃には、既につるんでいた仲間たちとも距離を置き、バイトではあったが働き始めていた岩本を、
真面目になった…親はそう思ったのかも知れない。だがそれは少年を養う為に、監禁している事を悟られない為に…。
その思いからだったのだが、それでも岩本は…比較され続けた優秀な兄が家を出た事で、頭の上の重石がとれた。
これで自分も親に認められた。卑劣であり情けなくもあるそんな考えが、頭の隅に浮かんでいた。

だから…犯した罪を隠すために…少年を捨てた。
なのに…少年を捨てる事は出来たのに、自分の罪を消し去る事は叶わなかった。
消したい罪は消えず、挙句に少年を捨てた呵責、兄に対する後ろめたさが加わり、闇はより大きなものとなった。
忘れてしまえば、気にも留めなければ良いのだろうが、それが出来るほど岩本の精神は強かではなかった。
そして今、捨てた少年が戻り…自分の犯した罪が、より大きく肥大していた事を見せつける。
ならば、今度こそ…捨てるのでは無く償いを…岩本は男の顔を真っ直ぐに見つめる事で、今に踏みとどまろうとした。


「亜実…俺がお前にした事は、どんなに詫びたところで許される事だとは思っていない。
それでも…今の俺には詫びることしか出来ないんだ。すまなかった、許してくれ。
お前が償えというなら、喜んで警察にも行く。だから…お前も……」
一緒に罪を償おう…そう言おうとしたが、男の目に浮かんだ怒りとも絶望とも見える光に、その言葉を呑み込んだ。
そして男は、岩本が予想もしていなかった事を言い出した。

「今更警察? とっくに時効でしょう。でもこれで良く解った。武人さんは…やっぱり、あのガキが良いんだ」
「あのガキ? 一体誰の事…」
「貴方が助けた、あのガキだよ。今の保育園の園長の孫だってね? 僕の事は犯したくせに…捨てたくせに。
貴方が人を殺してまで助けた子供は、大人になっても貴方には大切な人間だって事なんだね」
「お前、何を言って…」
「でもその大切な人は、自分の命の恩人が実は自分を犯そうとした男と、同じような人間だって知っているのかな。
それとも、貴方が園長の座に治まっているって事は、もうしっかり調教済みって事なの?
もしそうなら、僕は貴方にとって怖い存在なんかじゃなくて、無意味な過去の異物…って事になるけどね」

「亜実…もうやめないか、お前が言っている事は全部違うんだ。園長は保護司で俺は人を殺した犯罪者。
それだけの関係で孫の正春君とは何の関係もない。本当なら、過去の事件を思い出させる俺が園にいることは、
園長にとっても正春君にとっても、とても辛い事だと思う。それなのに、そんな素振りは少しも見せないで、
犯罪者だった俺にとても良くしてくれる。だから心から感謝しているし、少しでも恩返しがしたい…それだけだ。
俺は…お前が思っているような感情で、正春君や子供たちを見た事は一度も無い。本当だ、信じてくれ」

「………。だったら、それを証明して。あの子供と貴方は関係無いって…僕の身体に証明してみせて。
でないと信じない…信じられない…だから、おねがい…」
男の妖しいまでに、艶を帯びた黒い瞳がじっと岩本をみつめ、紅を刷いたような唇が音も出さず動くと、
細い指先が岩本の手に触れた。

どうして抗えよう。この瞳に見つめられて、抗えるはずなど無かったのだ。
あの日、この瞳に捕らえられてしまった自分に、踏みとどまる事など出来るはずもない。
それでも…岩本は渾身の気力を振り絞ると、男のひんやりと冷たい手を押し戻し腹の底から声を絞り出した。
「亜実…俺にもう一度過ちを犯せ…そう言うのか」

「過ちじゃない…償いだよ。僕は貴方が作った貴方のための玩具。貴方の為に啼き、貴方の為に震える。
それなのに、作った貴方拒まれたら、玩具はどうすれば良いと言うの。誰の為にも啼けないのに…。
要らないなら……作ったあの日まで時を遡り、罪の時間を償って」
囁くようにそう言うと、男の細い腕が岩本の首に巻きついた。

償い…その言葉に岩本は、自分の決意も抵抗も…無残に打ち砕かれる音を聞いた。
幼かった少年の身体は見違えるほどに変貌し、妖花の香りを放ちながら淫らに誘う。
岩本の僅かばかりの理性など吹き飛ばすように、細く長い手足を絡め、岩本を飲み込み…雫を滴らせ。
十三年の時さえ巻き戻し、岩本をただの雄へと変えていく。そして、悲しげに…切なく…甘い声で啼いた。

あぁぁぁ…良い……やっぱり、武人さんが一番良い。 貴方だけが、僕を白く染めてくれる。
お願い…もっと…そこを。身体も心を…何も感じなくなるまで…この一瞬が全てになるまで、僕を…犯して。


次の日から男は、岩本の仕事が終わる頃になると園の前に現れ岩本を待った。
そして、二人であの大きな屋敷に帰り、只ひたすら肉の交わりを繰り返す。
肉体の快楽は心の苦痛を和らげはしなかったが、それでも男に欲情する自分が酷く薄汚いもののように思え。
自分は闇に沈んで、もう二度と浮き上がれない。岩本はそんな気がした。
そんな岩本に、男は囁く。

「僕が憎い? 貴方を過去に引き戻す僕を…貴方を苦しめる僕を殺したいと思う?」
「そうだな…死んだ方が楽かも知れないな…」
「だったら、殺してよ…」
男に言われ岩本は自分の心に問う。お前を? それとも俺を? それを決めるのは誰…と。
多分それは…辛うじて留めている正気の中では見つからない…垣根を越えた先にある答え。

「…もう一度あそこに戻るのだけは、ごめんだな」
「そう…。あの子供の為に見ず知らずの男を殺せたのに…僕の事は殺せないんだ」
「お前は死にたいのか…」
「うん、死にたくは無いけど…死にたい。もう直ぐ僕は、貴方のいた所に行かなくちゃならないから。
僕は…貴方を見つけた時爺を殺した。その前の男も…僕を縛り付け、僕が貴方の元に帰ろうとするのを邪魔するから。
だから、いつか捕まり刑務所に入れられる。でも、そんな事はちっとも嫌じゃ無かったし後悔もしなかった。
なのに今は…貴方にこうして抱かれた今は…僕はあそこに行きたくないんだ。

僕の身体はね…貴方以外に触れられたくないのに、自分の意志とは関係なく誰彼構わず男を欲しがるから。
貴方に会えたから…もう貴方がいれば誰も要らないのに。あそこに行ったら、多分僕は…。
だから、償って…僕を誰にも触れさせないように…僕を殺して貴方の一部にして。
血の一滴、肉の一欠けらまで残さず食べてくれたら…僕は、永遠に貴方と一緒に居られる。
だって…貴方を愛しているから。貴方の元に帰りたかったから。そ れが…僕の願い。それが…僕への償いだよ」
本当の事なのか、それとも虚言なのか。うっすらと笑みを浮かべた唇を裏切るように、
男の黒い瞳からは、一筋の涙が頬を伝い流れて落ちた。

そして屋敷の奥の庭に埋められたものを目にした時、岩本は自分の犯した罪の結果に打ちのめされた。
全ての始まりは亜実を開放しなかったあの日。それが巡り巡って…罪の螺旋が巡る。
八年前のあの日…あの公園で…あれに出会った時。なぜあれほどに怒りを感じたのか、どれほど考えても解らなかった答え。
薄汚い大人と、幼い少年に…一体何を見たのか。八年間ずっと抱き続けてきた疑問と困惑。
判っているようでもあり、解らない自分の心の深部。それが今、埋められているものを目の前にして唐突に理解できた。

自分は…あの時、薄汚い大人に自分を重ね、幼い少年に亜実を重ねた。
悪戯されていたのは亜実…悪戯をしていたのは自分。怒りと狂気で、自分が殺したかったのは自分自身だったのだと。
それなのに…自分の肉体は残り、始まりの罪を宿したまま今ものうのうと生きている。

だから…男を殺すことが償いなら。男がそれを望むなら…最高の高みのままに逝かせてやろう。
全ての罪を償う為に、今度こそ垣根を超えて…真の犯罪者に…。
岩本はそう決心すると、男が最後の頂に昇る一瞬、その胸に深くナイフを突き立てた。
男は身体を硬直させ、飛沫を撒き散らしながら細い腕で力一杯岩本を抱きしめ。
そして、ナイフが身体に沈んで行く時でさえ、本当に幸せそうな顔で、
「ありがとう…愛して…い…る…」 切れ切れに言うと、ゆっくりと瞼を落とした。

男の息がなくなっても、男の中にある自分自身は萎える事もないまま男を繋ぎ止め、伝わる温もりを肌に刻む。
その温もりは、まるで岩本の中に溶け込むように少しずつ薄れていき、男が生きていた証も消えていく。
それなのに、男の顔に浮かんだ笑みは、今まで見たなかで一番穢れ無い…真っ白い天使の笑みのように見えた。

なぁ、亜実。俺達は間違った方法で出会い、間違った方法で結ばれた。でも俺は…それを後悔しない。
だってそうだろう? そうして出会わなければ、俺とお前は出会えなかった。
だから…お前と過ごしたあの時間は、決して罪の時間ではなかったんだよな。あの時、それに気付いていたら。
お前を捨てることも無かった。お前に愛していると伝え…お前の待つ場所に帰れたのに…。
お前の笑顔が…眩しかった。ずっとその笑顔を見ていたかった。それなのに…俺は、何処で間違えたんだろうな。
でも、もう二度とお前を離さない。俺たちは一つになって生きていく…そうだろう…亜実。

いつまでも男の身体を抱きしめたまま、頬を撫でながら二度と男の耳に届く事の無い言葉を紡ぐ。
愛を罪と錯覚し、愛を償う為に罪を犯し…全てを失い。それでも、岩本の顔に浮かんでいたのは、
最後の正気が見せた穏やかで幸せそうな笑み…やっと得られた心の安らぎ…そんなふうにも見えた。


「先輩。あの男…人を殺して食ったって言うのは本当なんでしょうかね」
「さぁ…本人はそう言っているが、本当かどうかも判らんだろう。何しろ、頭がいかれちまっているらしいからな。
ただ、あの家の浴室やキッチンに大量の血液や、人のものらしい肉片が見つかったっていうのは本当だ。
なのに、他に死体らしきものはない。本当に殺したのか、死体を切り刻んだだけなのか…どっちとも判断しようがない。
だいいち、人間一人殺して全部食っちまったなんて、信じられると思うか?」

「確かに、信じられませんね。骨だってあるし…一体どうしたんですかね、まさか骨までは食えないでしょう」
「本人は、自分とひとつになった…そう言っているが、捨てたのか食ったのか本当の事は判らん」
「うぇ、もしそれが本当なら完全に精神異常…狂っていますね。でも、あの状態で…殺人罪で罪に問えるんでしょうか」

「さぁな…それは、お偉い先生方の診断如何になるんだろうな。本人は、殺した相手は恋人だって言いはっているらしいが、
果たして本当かどうかも判らん。確かに…残っていた血液と肉片を鑑定した結果、
それが若い男のものだって事だけは判った。けどそれだけで、何処の誰のものなのかは不明だ。
挙句に、その殺された筈の男から、警察署長宛てに自分の犯行を自供する手紙が届いたって話だ。
それには、自分が財産目当てに殺した義父の遺体を庭に埋めてある…そう書いてあったらしい。

そしてその手紙の内容どおり、庭から別の人間らしい遺体が出てきた。形も残っていない自称殺人犯と、
頭のいかれた殺人容疑者。全く…訳の解らない薄気味悪い事件だよ。出来れば…その手紙の事は無かった事にして、
痴情のもつれで浮気相手を殺した男が、ついでに恋人まで殺しちまった。そういう事にしたいんじゃないか…上は。
殺してその死体を食った…なんて事になったら、世の中ひっくり返るような騒ぎになるからな」

「痴情のもつれ…ですか。本当に話の通りなら…恋人を殺して食って一つになったって事ですかね。
どういう経緯があったのか判りませんが、でも…あの人、どう見てもそんな事をするようには見えないんだけどな。
穏やかで優しそうな人物にしか見えませんよ。それが何で、あんな猟奇的な事件を起こしたんでしょうね」

「そんな事は俺にも解らんよ。ただ…人間は不可解な生き物だからな。人の心の中なんて、理解出来るものじゃない。
ましてや其処に巣食った闇なんてものには、他人はおろか自分自身も気付かない。そんなもんだよ」
「闇ですか…。でも、あの人はその恋人を愛していたのでしょうね。だから、あんなに幸せそうな顔をしているんですよ…」

「確かに、幸せそうだな…羨ましい位に幸せそうな顔をしている。それでも、人を殺しちまったらおしまいだ。
あいつの言うように殺した男が恋人だったとしたら、惚れた人間の血をすすり、肉を削いで、
それを全部腹の中に収めるなんて事は、正気の人間に出来る事では無い。狂わないと出来っこないんだ。
結果、人ではいられなくなる。それでも、それを選んだって事は…あいつ自身、自分で自分を壊したかったのかも知れないな」
「……。法の手の届かない所へ行ったって事ですか。なんか、やりきれませんね」

そんな警察官達の声も耳に入らないのか、岩本は鉄格子の嵌まった窓の外、雲ひとつ無い空を見上げながら、
そっと胸に手を当てると、首に下げた真っ白い小さな石を愛しそうに擦り…呟いた。

亜実…空が綺麗だな…秋が其処まで来ているぞ。
もうすぐ紅葉が色づく。そうしたら、一緒に見に行こうな…。


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