死んでみて判ること(2)
洗面台の鏡に写る時だけ、例の変な影のようなものが現われる。
始めは何となく薄気味悪く、違和感もあったが、今は慣れたのか普通に?話しも出来る。
人間とは本当に起用というか、適応力のある生き物だ…と妙な感心をしながら。
それはもしかして、死んでいるせいか?と思ったりもしていた。
そしてその影は、今日も俺に語りかける。
「どうした…良い行いは出来そうか」
「そんなもん、出来ねぇに決まっているだろう。さっさと地獄でも何処でもいいから、連れてけよ」
俺はブスッと答えると、濡れた髪の毛をガシガシと乱暴に拭いた。
「………。どうした、機嫌が悪いな。嫌な事でもあったのか?」
影のくせに、そんな事を聞いてくるのが可笑しい…と思いながら、
「別に…なんもねぇよ。ただ、わざと死刑を引き延ばされているみてぇな気分でよ」
俺はやはりブスッとした声で答える。すると影は、はっきりとした口も無いくせにニィ〜と笑い。
「イチ…。本来なら教えてはならない事なのだが、特別に教えてやろう。
お前にチャンスが与えられたのは、一人の人間が願ったからだ。
その人間は…どんな事でもするから、自分の命と引き換えにしても良いから、
お前を助けてくれ…死なせないでくれ…と必死に祈った。
自らの命をかけた心からの願いには、チャンスが与えられる。多分その人間は、
死んだら真っ直ぐ上に行くだろう。その事を知っても、お前は地獄に行きたいのか?
誰かの命がけの願いで与えられた、チャンスなのだぞ。
それでもお前は、今生きているのが無駄な事だと言えるのか」
俄かには信じられない事を言った。
勿論影の声が耳から聞こえる訳では無い。
ただ、頭の中で音が言葉になる…そんな感じなのだが、それでも意味ははっきりと伝わる。
そして俺も…声に出す訳でも無いのに、言葉として頭の中で声を出した。
「うそだろう…そんな、そんな事あるはずねぇよ。まさか、お袋? なわけねぇよな。
だったら、いったい誰だよ、そんな事を願ったのは…答えろよ!」
俺の言った事に、影はゆらゆらと揺らぎ…答えにはならない答えを返した。
「誰かは、わしには分からん。だが、お前を大切に思っていた人間がいた。それだけは確かな事だ。
ただ、お前がその事に気付かなかっただけ…なんだろうな。
イチ…生きている時には見えなかった事が、死んでしまってから始めて見える時もある。
お前はそれを知るために、今此処にいるのかも知れないな」
それだけを言うと、影は次第に薄れ…霧散するかのように消えてしまった。
チッ…肝心の事は教えねぇってか…役にたたねぇ奴。
頭の中で毒つく俺とは逆に、鏡に映った俺は不安そうで…今にも泣きそうな顔をしていた。
俺は、この身体になって、最初に会いに行ったのがお袋だった。
みっともない話だが、俺が死んだ事を少しは悲しんでいるかも知れない。
親より先に死んでしまった俺を、恨んでいるかも知れない。悲しんでいるかも知れない。
もしそうなら…お袋に一言詫びの言葉でも…そんな殊勝な考えを抱いて真っ先に家の近くまで行ってみた。
だが、そこに見たのは…俺が死んでいくらも経っていないのに、
新しい男と面白可笑しくじゃれ合っているお袋の姿と、俺の骨壷が物置に放り捨てられていた現実だった。
だから、影の言った人間がお袋の筈はない。だとしたら、一体誰がそんな事を願う。
俺には、いくら考えて判らなかった。
でも…俺の為に、誰かが涙を流してくれた。死ぬな…と願ってくれた。
そして、その人間の想いは俺の中で小さな火となり…それがとても温かく…とてつもなく重かった。
だから俺は…それに、応える何かをしなくては。俺はその為に生き直している。
生まれて始めて、死んでしまってから初めて…素直にそう思った。
今の俺は、普通の家庭で普通の生活をしている普通の高校生なのだが、
今の自分から考えると、以前の俺が、とんでもなく普通では無かった事に驚き…感心?する。
何より学校へ通うのが楽しいし、勉強も嫌では無い。友達と交す他愛ない会話が楽しい。
妹の憎まれ口が可愛い。母親の小言が…父親の背中が…それから、家族でする食事が…。
以前の俺には無縁な、普通の日常。それら全てが、生き返って始めて体験する、
温かい家族のくらしだった。
そして今日も、わりと仲の良いクラスの男子が、帰ろうとしていた俺に声をかけて来た。
「柏原君、今日暇だったら一寸付き合ってよ」
「いいけど、どこか行くの?」
俺は、片手にカバンを持ち、もう片方の手で椅子を戻しながら聞く。すると友人は、
「うん、新しく出たゲームが面白そうだから、それ用のゲーム機を買おうと思ってさ」
言いながら、気も早くすでに歩き出だしていた。
だから、俺はその後を追うように、友人の背中に話しかける。
「へぇ〜お前、ゲームなんてするんだ」
「えっ? ゲームぐらいするよ。中学までは結構嵌って毎日やっていたけど、
高校になってからは、何となくご無沙汰。でも、今度出たやつが結構面白いって聞いたから、
またやってみようかと思ってさ」
少しだけ自慢げに、少しだけ恥ずかしそうに…友人は笑う。
「へ〜そうなんだ。まさか…意外とオタクだったりするの?」
「そこまでじゃないけど、結構はまるタイプかも知れないけどね」
「そっか…じゃ、俺も一緒に見てみようかな」
俺は靴箱の鍵を開けると靴を下に下ろし、履いていた上履きを其処へ押し込んだ。
俺と友人は寄り道をして、大型電気店のゲーム用ソフト売り場に行くと、
お例用に設置された新型ゲーム器の前で、格ゲーで対戦する。
友人は、見かけによらず予想外に強くて、俺は一勝二敗で負けてしまった。
学校では見たことも無い、友人の意外な一面を垣間見て、俺は驚いたが。
お目当てのゲームを手に入れ、至極満足そうに笑う友人の顔を見ながら、
負けた悔しさよりも…楽しい…こんな他愛も無い事が楽しい……そう思った。
帰りには二人で、マックに寄ってクラスの女子の話、先生の話、
好きな本やゲーム、音楽と話は弾み。将来の夢まで語る友人の顔を見ながら、
将来…そうだった…俺には将来なんてなかったんだ。将来どころか、明日だって…。
なにしろ、俺はもう死んでいるのだから…語る将来など…無い。そう思った時、
今まで生きてきた年月が、無駄だったとは思いたくないが、もっと…もっと、自分を大切に。
周りの人たちを大切に…生きれば良かった。 俺は…生まれて初めて…心の底からそう思った。
「どうしたの? 涙…」」
友人の声にハッと我に返り…俺は、自分の目から涙が零れていたのに気付いた。
「あれ? あ、ごめん…久しぶりにゲームをしたせいかな…」
俺はそう言って、涙の訳を誤魔化す。涙など流したのは、忘れてしまうほど遠い過去の事で、
俺の記憶の中では、涙は俺とは無縁に近い存在だった。
だからと言って、今流れる涙が、目が痛いせいなどではない事も解っていた。
それなら、どうして…と問いかけると、今までそんな感情を味わった事のなかった俺には、
うまく説明できるものではなく。ただ、悔しさにも似たその感情を、
涙の理由など…俺は、考えたくは無かった。そんな俺に、目の前の友人は心配そうな顔で、
「大丈夫? 集中しすぎるとドライアイになっちゃうんだよな。つき合わせちゃって、ごめん」
言いながら、ポケットからテッシュを取り出すと俺に差出した。
「違うよ…君のせいじゃないよ。だって、僕も楽しかったから。友達と一緒で、本当に楽しかった」
そう言った途端、俺の目からもう一雫涙が零れ落ち。俺は友人から受け取ったテッシュを目に当てた。
「そう、良かった。それじゃ、今度は僕が柏原に付き合うよ。買い物でも遊びでもなんでも良いからさ。
言ってくれたら、絶対付き合う。だから、いつでも言って」
「うん、ありがとう。君って変な奴だな…でも、良い奴だ」
「柏原くんこそ、優等生なのにさ、全然それっぽくなくて…良い人だよ」
友人のそんな言葉が俺を感傷で包み、切なさを齎す。そして、ほんの些細な言葉で人は幸せな気持になる事を知った。
俺たちは外に出てからも他愛ないお喋りをし、ふざけあいながら駅に向かう。
その姿は多分、生きていた頃の俺には無縁だった普通の高校生の姿。
それが嬉しくて…楽しくて…はしゃぎ過ぎた…その時。友人の持っていた買い物袋が誰かに当たった。
「いてっ!」
大袈裟とも思える声の主に顔を向け、俺は一瞬ヤバイ!と思った。俺の横にいた友人は、
「あっ、すみません」 そう言って、ご丁寧に頭をさげる…が、声の主は、
「痛ぇじゃねぇかよ。そんな物騒なもん人に当てやがって、怪我でもしたらどうしてくれるんだよ」
お決まりとも言えるセリフで絡み始めた。そいつらは、以前の俺とは顔見知りだったが、
あまりたちの良くない連中だった。でも…俺ならどうって事も無い相手…そう思っていた。
それでも、友人と一緒の今は喧嘩など出来ない。謝って済ます他ない…と思い、
俺も一緒になって奴等に頭を下げる。だが、それで気を良くしたのか、奴等は益々俺達に絡み、
お決まりの金まで請求しだした。こんな奴らに恐喝されて、金を巻き上げられる。
そう思うと、俺はどうにも我慢が出来なくて。
だから…自分の身体が以前のように動くかどうか、幾分不安はあったが、
目の前の、にやけている奴を叩きのめせば…後はどうって事ない。そう思い、
俺は、大きく息を吸い込むと腹に力を入れた……と、その時。
「お前等、なにやっているんだ。 そんなガキ等相手に、集ってるんじゃねぇよ」
結構ドスの利いた声が聞こえ…【ゲッ!この声は】 と、声の方に首を回すと。
【やっぱり…大崎かよ!】
俺は思わず、思いっきり嫌そうな顔をした。だが大崎は、俺と目が合った途端、
「よう、また、会ったな。今日は学校の帰りか?」 言いながらニッと笑った。
【チッ、相変わらず、カッコつけやがって、やっぱりムカつくんだよ、てめぇ!】
俺は心の中で毒つきながら、ふん…といった顔で返事もしないでいると、絡んできた連中が。
「あっ!大崎さんの知り合いですか」
さっきまでの威勢は何処に、奴等は大崎に向かって卑屈な顔で頭を下げる。すると大崎が、
「知り合い? そうだな、俺の親戚だ。そうだよな」
そう言うと、俺に向かって片目を瞑り口元を片方だけ上げて笑った。
【バカ!要らねぇ事言うな! それに、俺はお前と親戚になんかなりたかねぇ!
って言うか…こいつって…こんなに、男っぽくて格好良かったっけ?】
俺は、一瞬そんな事を思い、慌てて頭を振ると頭に浮かんだものを振り払う。
すると連中が、これまたバカな事にそれを頷いたと勘違いしたらしく、
それこそバカっぽいへらへらとした笑みを満面に貼り付け、俺たちに言った。
「そうでしたか。いや、知らなかったもんで、すいませんでした。
学生さん、別にたいした事ないから、気にしないで行っていいよ」
と、いきなり俺たちの事を学生さんに格上げしたのには、流石に呆れてしまったが。
考えてみれば、俺はともかく友人にとっては、被害者以外の何ものでもないだろう。
そして大崎の出現は…多分有り難い事に違いない…と、一般人らしく思う事にした。
「だそうだ。そんじゃ、さっさと帰りな。 この辺りは物騒だから、この先も、気ぃつけてな」
大崎はそう言うと、ヒラヒラと手を振って早く行けという合図をする。
それを幸いとばかりに、俺は連中と大崎に向かって、友人と一緒に頭を下げると、
そのまま友人の手を掴み、嘗てない逃走さながらにその場を立ち去った。
「危なかったな。でも、あの人のおかげで助かった。親戚って本当なの?」
さっきまで、俺に手を引かれるように無言で付いて来た友人が、電車に乗ってホッとしたのか、
俺の耳元に顔を寄せると、小さな声で聞いた。
帰宅ラッシュ時は過ぎていたが、電車は混んでいて、俺と友人はドアの側に並んで立ち、
辺りを憚るように声を潜めて話す。
「違うよ、親戚なんかじゃない。あの人、前に一度僕に声をかけて来た事があったんだ。
その時は、誰かと間違えたらしくて。でも別人だと判って…だから、知り合いでも何でも無い」
「へぇ〜そうなんだ。でも、柏原くんの事を知っているみたいに見えた」
友人に言われ、本当は逆なのになぜそんなふうに見えたのか…俺は、不思議に思ったが、
「知らないよ…あんな奴」
そう言って否定しながら、本当の自分を否定しているようで少しだけ寂しい気もした。
「そうなんだ…。でも、あの人、ちょっとカッコ良かったな」 友人は何となく楽しそうに言い。
「カッコよくなんか無いよ。あんな奴」 俺はそう言うと、ホームに着いた電車を降りる。
ほんの二駅ほどの何分かの時間が、俺には妙に気詰まりな時間に感じられた。
今の俺は、あいつの事なんて知らないし…あいつと関係もない。
それでも確かに…以前は、いつも俺の側には…大崎がいた。
俺には、いつもつるんでいる仲の良い奴等が何人かいたが、どうしても集団になると、
いろいろ面倒を起こしたり、巻き込まれたりする事が多い。
それに…最近になって変なグループが入りこんで、あちこちでトラブルが多くなっていた。
そいつらは、バックに暴力団が付いているとかほざいて、薬とかも捌いていたらしいが。
俺は、どうしようもない悪ガキだったが、ヤクザや、薬と関わるのだけは嫌だったから、
出来るだけ、そいつらとも関わらないようにしていた。
一人のほうが気楽だし、必要以上にエスカレートすることも無い。そう思っていたから、
仲間たちと一緒に、グループとかチームとかを作る事もしなかった。
だから…って事ではないだろうが、俺は一度だけ…訳の分からない奴に羅散られそうになった。
その時、偶然その場に居会わせた大崎が、俺を助けてくれた…のだが。
その時初めて、大崎が喧嘩をするのを見た。そしてその時、こいつは喧嘩が強いんじゃない。
相手を叩きのめすのが楽しいんだ…そう思った。
だって、本当に楽しそうに、薄笑いを浮かべながら、相手を殴り…蹴る。
血が飛び散っても、それを浴びる事すら楽しんでいる…そんな悪鬼のように見えた。
そして、とうとう相手が動かなくなり、始めて大崎の顔から歓喜の表情が消えたのを見て。
俺は、情けない話だが大崎の事を怖い…そんなふうに思ってしまった。
だから大崎が、大丈夫か? そう言って、俺に手を差し出した時、
俺はその手を掴む事が出来なかった。
大崎が、以前は結構大きなチームのリーダーで、喧嘩の強さも半端じゃない。
そんな話は聞いていたが、それまで大崎が喧嘩しているのを見た事がなかった俺は、
その話を、正直言って信じてはいなかった。俺の知っている大崎は、
良く言えばもの静かな、悪く言えばむっつりとした得体の知れない奴で。
喧嘩だって、本当に強いのか、それとも、本当は弱いのか…そんなふうに思っていた。
それが、あの件以来…あの時の大崎を思い出すと、身体が震えてくるような気がした。
その大崎が、気が付くといつの間にか、いつも俺の側にいるようになっていた。
だから、本当は一番身近にいた奴で、一番懐かしい奴だったのかも知れない。
俺は家に向かいながら、そんな事ばかり考えていた。