近づくほどに(後編)



下着とワイシャツ、それに靴下ネクタイをバッグに詰め、明日の準備を済ますとベッドに入る。
あと3時間ほどすれば、起きて出かけなくてはならないのになかなか寝付かれず。
やはり、思うのは沢田の事だった。自分は…次に沢田に会ったら、何を口走ってしまうのだろう。
いっそ会わないほうが…そんな考えが浮かび、それでも、もう一度会いたい…。
頼りなくゆれる自分の心に目を背けるように、桧山は瞼を閉じた。

話し合い等という口実を設けて、桧山を呼び付けているだけの三ノ輪との話し合いなど、
桧山がうんと言わなければ、話の進展などみられるはずもなかった。
用地案内に託けたドライブにつき合わされ、食事を共にし。そして夜は、洒落たクラブに誘われて酒の相手。
これが男と女なら、まるでデートでもしているようなもので、
これが、この先何度もあるのかと思うと、桧山は些かうんざりしていた。

そして…必要もないのにホテルの部屋まで送られ、いきなり抱きしめられた時、
漂う上品なコロンに混じるオスの匂いに吐き気がした。
それなのに…あの汗と埃にまみれた沢田の腕の中で感じた、切なくも甘い陶酔感を思い出した。
彼だけは…沢田だけは…自分にとって特別なのだ。自分は、沢田以外の男になど触れられたくはない。
銀行は辞めよう…桧山は密かにそう決心した。

三ノ輪は、日曜まで桧山を自分の側に留め、あわよくばその間に自分のものに…などと考えていたらしく。
それが解っていた桧山は、どうやって一刻も早く帰るか…そればかりを考えていた。
だから次の日、一日中ゴルフやら食事に付き合わされた帰りの車の中で、
如何にも心配そうに…母親が体調を崩して入院したと連絡があったと嘘を言い。
明日はどうしても帰りたいのだと、三ノ輪に縋るように伝えた。

もとより、土日まで三ノ輪に付き合う義務など無いのだから、桧山にそう言われると駄目とは言えず。
幾分不服そうながら、余裕の態で頷く。さりとて、ただ返すのは意にそぐわなかったのか、
やはり、ホテルの部屋まで送ると、拒否反応のように硬直する桧山を抱きしめ…ゆっくりと唇を重ねた。

ナメクジのような舌が、口の中に入り込んでくる。嫌だ…気持ち悪い…吐きそう…。
暫くは我慢していたが、本当に胃の辺りから今まで食べた物が競りあがってくるようで、
とうとう我慢できず突き放そうと思った時、散々口の中でのたうっていた異物が、名残惜しそうに出て行った。
口の中に溜まった唾液の気持ち悪さと、吐き気を抑えているせいで、うっすら涙ぐんでしまった桧山に、
三ノ輪は、何処をどう勘違いすれば そういう台詞が出てくるのか…と呆れてしまうような事を言った。

「君は思った以上に初心なんだな。その上感度も良さそうだ。
これで益々、君との初夜が楽しみでしょうがないね。これから私の手で、君がどんなふうに変わっていくのか、
それを想像すると…先の楽しみが増えたという訳だ。
まぁ、最初は不安だろうが、安心して私に任せていなさい。きっと満足させてあげるから…いいね」

それに対して返事などしようも無く…と言うより口を開けば、口の中に溜まった唾を吐きかけてしまいそうで。
桧山が黙っていると、三ノ輪はそれを恥ずかしがっているのだと勝手に誤解し、
ますます調子に乗って、歯の浮くようなくどき文句を並べたてながら、最後に桧山の頬にキスをすると、
桧山には理解出来ないほど上機嫌な笑みを浮かべ帰っていった。

本当に吐いてしまった。
三ノ輪が部屋を出た途端、トイレに駆け込み胃の中のものを残らず吐き出して、
何度も何度もうがいをして…それでも飽き足らず唇をゴシゴシ擦って。
それから、今まで生きてきた中で一番丁寧に、そして荒々しく歯を磨く。それから、

「何が初夜だ…私に任せろ? 冗談じゃない誰がお前なんかと…変態野郎」
ぶつぶつ独り言を言いつつ、そのまま浴室に入りシャワーを浴びた。そして、どうにか落ち着いた時には、
唇は少し皮が剥け、少しだけ血が滲んでいた。それからベッドに入り…それでも何となく想像する。
あの口付けが、沢田の唇だったら…と。

黙って身を委ね、任せられるのが沢田だったとしたら…。
ナメクジのように思え、気持ち悪いだけだった舌も、喜んで受け入れ絡めあえるのだろう。
任せて…彼の指先が触れるのを喜び、肌の温もりを感じられるのに。
あの硬く締まった筋肉で覆われた身体に、抱きしめられたら…。
それだけで自分は、嬉しさで泣いてしまうかも知れない。幸せで…死んでしまう。

【一度で良いから…現実に夢をみたいよ…沢田】
桧山の声にならない呟きは夜のしじまの中に溶けて、頬を濡らす小さな雫に変わった。


出張から戻ると、桧山は早速沢田に電話をして会う約束をした。
迷っていた気持ちなど、帰りの飛行機に乗った途端に吹き飛んでしまい。
帰ったらすぐにでも会いたい…そう思いながら、
「日曜の12時、高校の正門前で…」 と言った桧山に、沢田はクスッと笑い。
「そうだな、あの頃に戻ってみるか」 と言った。

戻れるものなら、もう一度あの日に戻りたい…と切に願い。
戻ったら、自分の想いは何処に行ってしまうのだろう…とも思う。
沢田を、ただの男友達にして、これほどまでに好きになった心も消えてしまうのだろうか。
たかが高校生の頃の恋心。しかも、相手は同窓生の男子。
だからあれは、友情が少し煮詰まっただけのもので、いつかは消えて無くなる。そう思っていた。

だが、初めて好きになった人は、いつまで経ってもたった一人の人のままで。
遠く離れていても、何年が過ぎようとも、想いは色あせることも無く、失った時の痛みもそのままに、
今も心の中にあった。どんなに辛くても苦しくても…沢田を好きになった心だけは消したくない。
だから、戻らなくて良い。戻りたくない…桧山は心からそう思った。

約束の時間、沢田は萌木色のニットシャツにジーパン姿で現れ、桧山の姿に気付くと、
ちょっと照れたような笑顔を見せて片手を挙げた。
「待ったか?」
沢田の口元には片方だけ犬歯が覗き、それが大人の男になった沢田の顔を少しだけ幼く見せた。
「ううん、僕も今着いたところだから」
桧山は答えながら、少し眩しそうに沢田を見上げ…その時ふたりの時間はあの日の前まで遡る。
そして、ぴったり閉まっている門に目を向け沢田が言った。

「そうか…で、中には入れそうか?」
「無理みたい。 多分、今は色々あるからから、勝手には入れなくなったんだと思う」
「そうだろうな。 それじゃ、裏山に行くか?」
「うん」
桧山が頷くのを見ると、沢田は校門前の道を奥へと歩きだし、桧山もそれを追うように後に続く。

あの頃はいつも開いていた門が、今は侵入者を拒むように閉じられ、それに時の流れを見る。
それでも、校門前の道の先。学校の裏側にあたる高台に続く、急な階段はそのままになっていた。
多分、昔は小山だった所の裾を削って、平地にして学校を建てたのだろう。
その時、上はそのまま自然公園として残し、学校とは反対側の上り口から、緩やかな遊歩道が作られた。
そしてこちら側には、崖に丸太で土留めしたような階段がそのまま残された。

沢田と桧山は、学生の頃昼休み時間に何度かその丸太階段を上り、公園に行った事があった。
其処で眼下に校舎を見下ろし、他愛のない話をしながら時間を過ごす。
今でも、あの二人だけの時間が、一番楽しく…そして懐かしい一時として心に刻まれていた。
「桧山、気をつけろ。滑るなよ」
そう言って、沢田が伸ばした手を掴み、桧山は少しだけ今の想いのままその手を握る。そして、
「うん、大丈夫。でも、ありがとう…」 握った手に少しだけ力を入れた。

時が経て、丸太も朽ちているのか、足場は悪くなっていたが、それを踏みしめて上まで上ると、
其処に人の姿は見られなかった。嘗ては、子供達を乗せて交互に傾いだシーソーは壊れ。
ブランコも、錆を浮きたたせた支柱だけになり、ポツンと残されていた。

「なんだか、変わっちゃったね…日曜なのに、人も来ないんだ」
「あぁ、此処はそのうち崩されて、新しい公園に生まれ変わるんだと。
たいした高さでもないけど、年寄りやベビーカーを押して上るのは大変らしい」
やはりこの町でずっと暮らしてきた沢田は、そういう情報も耳にしているのか何気ない口調で言う。
だが桧山は、沢田との思い出までも消えてしまうような気がして、無性に寂しい気がした。だから、

「そうなんだ…なくなっちゃうのか。 なんか、寂しいね」
気持もそのままに、しんみりとした声で言う。すると、沢田は、
「あぁ…寂しい。けど、どうしようもない。古いものは、新しいものに生まれ変わる」
そう言いながら、公園を見まわし崖下の校舎に視線をむけた。

その横顔を見ながら、沢田は視線の先に何を見ているのだろう…と思った。
そして、そこに自分は居るのだろうか…。一瞬、そんな事を思ったら、
【僕を見てくれよ! 今だけでも良いから僕だけを見て】
そう言って叫びたい衝動にかられた。だから…わざと明るい声で言う。

「そうだね。でもおかげで、今日は僕たちの貸し切りだね」
桧山のその声で、沢田はふと我に返ったように桧山に視線を戻すと、
それから、やはり朽ちかけている丸太ベンチを跨いで座った。そして、
「そうだな、お前と二人だけだ…。で、どうだった? 出張は…上手くいったのか?」
桧山を見上げるようにして言った。

「さぁ、どうかな…でも、もう良いんだ」
言いながら、桧山も又沢田に向き合うように、丸太ベンチを跨いで座る。
向き合う互いの距離は、ほんの二メートルにも満たない。
桧山にはその距離が、手を伸ばせば届くほど近いようにも思え、果てしなく遠いようにも思えた。

「…そうか、良いのか…」
「うん…良い。それより、沢田の方こそ急に会う事にして、仕事大丈夫だった?」

「俺はドカチンだからな。休みはあって無いようなもんだ。
今日は、俺が出なくても他の奴らで充分だって言うから、全部任せて来た」
やはり、ちょっとだけ照れくさそうな沢田の顔…が、あの頃の沢田の顔に重なり…眩暈を引き戻す。
木漏れ日がきらきらと眩い舞で過去の映像を巡らせ、緑濃い葉がさわさわと懐かしい歌を奏で。

「任せてって、それって偉くなったって事だ、凄いな」
跨いだそれに手をついて、その手の分だけ桧山は前に進む。
「バ〜カ、そんな大層なもんじゃないよ。ただ、親父が倒れたから、一応俺が責任者って事になっているだけだ。
仕事はまだまだ半人前だし、皆に負ぶさっているようなもんだよ」

「あ、そうなの? 沢田の家って建設業だったんだね…知らなかった」
「俺は、なんせ頭がバカだからさ。大学に行っても、何の役にも立たないと判ったから二年で止めた。
丁度その頃親父が倒れて、跡なんか継ぎたくなかった俺は、嫌々仕事を手伝っていたんだが、
そのうちに段々面白くなって、ちょっと、本腰を入れてやって見ようかなと思ったって訳だ」

「ふ〜ん、そうなんだ。沢田は、やはり独立独歩型なんだね。それじゃ、今は幸せなんだ。良かった」
今度は、さっきより前に手をついて…もう少しだけ、前に……。

【沢田…知ってる? こうして近づくほどに心が切なくなるのは、僕が君を愛しているから…なんだよ】

「幸せか…。お前こそ、メガバンクに就職して、前途洋々だって聞いたぞ。
今に俺なんか、同級生ですって言っても、相手にしてもらえなくなるんだろうな」
「何を言っているんだか…そんな事あるわけ無いだろう。僕は、あの頃から欠陥品だからさ。
いつだって何処か部品が足りなくて、上手く噛み合えない。でも、補える部品は持ってないから…。
何とか誤魔化しながらやっているだけだよ。それで…沢田は…結婚は?」
最後の言葉を言う自分の声が、心臓の音を移して震えるような気がした。

「結婚か……。俺は、一番好きな奴を、俺が幸せにしてやりたい…そう思っていた。
それなのに、その一番好きな奴を泣かせてしまった。
だから、俺はそいつの幸せを見届けるまでは、自分の事なんてどうでも良いと思っている」
【痛い…辛い…そんな言葉なんて聞きたくない。 でも、笑顔でいなくちゃ。笑顔で言わなくちゃ】

「駄目だよ、好きな人を泣かせちゃ。見届けてなんて言ってないで、さっさとポロポーズしないと。
そのうち、彼女に逃げられちゃうよ。 そうなってから、後悔しても遅いんだからさ」
【痛い…辛い…こんな言葉なんて言いたくない。でも、笑わなくちゃ】
だが…次に沢田が言った言葉は、桧山から不自然な笑顔を奪っていった。

「彼女? そんなもの居ないよ」
だから…思わず聞き返した声が、いやに間抜けて聞こえた。
「え? 別れたの? 結婚するはずじゃ…彼女と」
「結婚? お前、誰の事を言っているんだ?」
「田中さん…田中真理菜さん…」
桧山がその名前を口にすると、沢田はちょっと眉を顰め、「あぁ…」 と言った。それから、
「真理菜か…。あいつとはとっくに別れた。大学に入って一年もしない頃かな。
それ以来、彼女いない暦7年だ。どうだ、凄いだろう…って自慢できる事じゃないけどな」
沢田はそう言いながら、意外と晴れやかな顔で笑っていた。

「別れたって…。だって、同じ大学に行って将来結婚するって…」
呟くように言った桧山の声は、戸惑いと不信に彩られ、
確かに彼女はそう言った。 とても幸せそうな顔で。その言葉で、失った恋が微塵も残さず粉々に砕け散った。
だから、父が再び海外赴任と決まった時、一緒に海外に渡り、向こうの大学を受験しようと決めた。
呆然とした顔で沢田を見つめる桧山に、沢田は更に信じられない事を告げた。

「真理奈の奴、お前にそんな事を言ったのか。そうか…だとしたら俺のせいだ。
俺がいい加減な気持ちで、あいつと付き合ったから、あいつは夢を見たのかも知れない。
俺はあの頃、好きな奴がいて…その事でいろいろ悩んでいた。本当に、そいつの事が好きなのだろうか。
もしかしたら…好きだって勘違いしているだけじゃないだろうかって、自分なりに、結構真剣に悩んでいた。

そんな時、真里菜に好きだって言われた。真理奈の事は嫌いじゃなかったから、一度付き合ってみて。
俺が、そいつの事を好きだと思っている気持ちが、一体何なのか確かめてみようと思ったんだ。
でも、真理菜と付き合い始めて直ぐに判った。真理菜と一緒にいても、何かをしても、
そんなに楽しくないって。いや、違うな…楽しいけど、なんて言うか、違うんだよ。

そいつといる時は、ふんわり暖かくて…顔を見るだけで幸せな気持ちになった。
ちょっとした表情や仕草が可愛いと思ったり、見つめられるとドキドキしたり。
後姿なんて見ていると、抱きしめたいなんて思ったりもした。
けど、真理菜といても、そういう気持ちにはなれなかった。それで、はっきり解ったんだ。
俺が本当に好きなのは、そいつだけだって。

だから、真理菜には別れようって言った。けど…真理菜の奴、嫌だ、どうしても納得できないって言うから、
俺は本当に好きな奴がいる。そいつ以外好きになれない……真理菜にそう言ったら、
相手は誰だってしつこく聞くから、仕方なく言っちまった…そいつの名前」

「じゃ……今もその人の事…」
「あぁ、好きだ。大好きだ。今でも俺の一番大切な奴だ」
「それじゃ、どうして…」
「俺は、その一番好きな奴を泣かせてしまった。 そいつの涙の訳も知らないまま、好きだって言えないまま。
そいつは遠くに行ってしまって、何も聞くことも、伝えることも出来なくなったんだ。
桧山…。真理菜は最後に、泣きながら俺に向かって言ったんだ。

「女が相手なら、絶対沢田をその女になんか渡さない。
でも…男が相手じゃ、私にはどうしようもないじゃないの。ずるいよ、汚いよ…卑怯だよ。
私を抱きながら、いつも桧山を思っていたなんて。そんなの許せないよ。
だから…私があんたを振ってやる! 腐れホモ野郎…お前なんか桧山にくれてやる」
そう言ったんだ。」

「ホモ野郎? 桧山に…それって!」
「幸せか、桧山。お前が幸せなら俺はそれだけで充分だ。お前の幸せを見届けるのが、
お前を泣かせた償いだと…ずっとそう思ってきた。だから、深紀…今お前は…幸せなのか?」
沢田の目に光るものが何なのか…それの意味は…と、考えた時はっきりと判った。
失ったはずの恋は、道に迷っていただけだと。だから今、初めて恋したたったひとりの人の下へ。
そして…近づくほどに、切なくなる幸せがある事を知った。

[こんにちは、○×銀行の桧山ですが…融資の件でお伺いしました」
「お〜ぃ、基。桧山さんがみえたぞ」



End