愛・そして罪(前編)        岩本武人(たけと)=結城亜実(つぐみ)



「園長先生、お願い書いたよ。吊るして、吊るして」
「あ〜 ずるい。美穂ちゃんより僕のほうが先に書いたんだぞ」
「違うよ。隆弘くんは、まだ紐が付いてないじゃない。美穂は、全部出来た」
子供達が我先を争って小さな手を伸ばす。その小さな手には、子供たちの大きな夢がにぎりしめられていた。

「はいはい、喧嘩をしない。先生が全部吊るしてあげるから、心配要らないよ。
皆が一生懸命考えて書いたお願いだがらね。ちゃんとお星様に届くように、頑張って吊るすから、
きちんと紐を付けて、其処にある箱の中に入れて置きなさい」
副園長の岩本武人は、短冊を小枝に括りながら下で見上げている子供達に目を向けると優しげに声をかけた。

七夕を間近に控えた樫の木保育園では、毎年玄関ホールに立てた大きな笹竹に七夕の飾り付けをする。
そしてそれには、園児達が一生懸命考えた自分の未来の姿が映し出される。
本当に子供らしい夢から大人も驚くような現実的なものまで…千差万別であっても、吊るされる短冊の一枚一枚には、
紛れも無い子供達の、希望に満ちた夢と未来が描かれていた。

岩本武人は、それらを一枚ずつ細い枝に吊るしながら、自分がこの年頃に見ていた未来を思い出そうとしたが。
それは思い出せない程遠い記憶になっていた。それでも…今手にしている子供たちの未来と同じように、
自分にも何か未来があった筈…そう思いながら現在に至る過程を思う。
それは、その頃描いていた未来とは大きく違っているのは確か。だが今は、その過程にさえ感謝したい…心から思った。

「さぁ、みんなはそろそろお昼寝の時間だからね。お教室に戻りなさい。その間に、先生が頑張って吊るして置くからね。
皆が起きた時には吃驚するほど綺麗に出来上がっているよ」
「は〜い」
「園長先生頑張ってね」
子供達が名残惜しそうにそれぞれの教室に帰って行くのを確認すると、岩本は短冊の入った籠を肩にもう一段脚立を昇った。
今日の夕方、保護者達がお迎えに来る時間までには何とか仕上げよう。そう思いながら、
この薄っぺらな紙の短冊が子供達の未来だと思うと、肩に掛けた籠がとても重い物のように感じられた。

二階までの吹き抜けになっている玄関ホールに設置した竹はかなり大きく、脚立も上段まで上らないと届かない。
その為、岩本がこの保育園に勤めるようになってからは、短冊の飾り付けは岩本の仕事の一つになっていた。
初めて用務員としてこの保育園に雇ってもらってから、六度目の飾りつけになる。
その間に園長の勧めで保育士の資格を取り…そして去年からは、園長が高齢という理由で、
実務に関しては岩本が園長代理を兼ねる副園長として、園での一切を任されるようになっていた。
それを思うと時の流れを実感しながらも、何もかも身に余る恩恵…そう思い感謝せざるをえなかった。

「七夕の飾りつけですか。大変ですね。お手伝いしましょうか?」
下からの声で岩本は玄関ホールに視線を移したが、笹の小枝が視界を遮り声の主を確認する事が出来なかった。
それでも何の迷いも無く、その声を保護者だろう…そう思い別に不思議とも思わなかった。
いつも仕事で子供と一緒にいられない親は、時間の都合がつくとこうして早いお迎えに来る事もある。
そしてそれは子供とってもとても嬉しい事でもあった。だから、岩本は何の躊躇いも無く思わず答えた。

「有難う御座います。でも、もう終わりですから大丈夫です。
お迎えですね、子供達もそろそろ起きる時間だと思いますから、どうぞ教室の方へ行ってみて下さい」
だが岩本の言葉に下から返ってきた返事は、岩本の予想とは違ったものだった。
「そうですか。でも…あいにく僕は子供を迎えに来た親ではありません」
そして男の声には、なぜか少しだけ笑みが含まれているようにも聞こえた。
保護者でないのなら、多分業者か役所の人間だろう。それを勘違いした自分を笑っているのだろう。
そう思った岩本は、苦笑しながら最後の短冊を手に、もう一度男に声をかけた。

「あ、それは失礼いたしました。てっきり保護者の方かと思ったものですから…私の早とちりだったようですね。
園の方に御用でしたら、事務室に行って頂ければ事務の者が居ると思います」
言いながら、手繰り寄せていた細く撓る枝先に短冊の糸を結び、そっと手を離すとそれは弾むように揺れながら、
ホールの真上に躍り出ていった。子供達の未来を纏った色とりどりの笹竹は、どんな巨木より雄雄しく、
どんな木々よりも美しく優雅に見えるような気がする。そして、此処にある未来が全ての子供達に訪れるように。
岩本は、七夕の飾りつけをしながらいつも心からそう願った。

「それが最後ですか、お疲れ様でした。しかし、こうしてみると綺麗なものですね。
これで、少し風でもあればもっと風情があるのでしょうね」
又も聞こえた男の声に、事務室に行ったのでなかったのか? 岩本はそう思いながらも、
「そうですね…外から風が入ると、さわさわと音をたてて揺れます。でも、玄関を開けておく訳にもいきませんからね。
どうもお待たせしました、直ぐに事務室まで案内しましょう」
空の籠を手に脚立を降りながら、男に向かって言う。すると男は、さっきより笑みを含ませた声で答えた。

「僕は、園に用事があって伺った訳じゃありません。園長先生、貴方に会いに来たのですよ」
男の言ったその言葉に、岩本は初めて不審に思った。自分には園での同僚以外、親しく言葉を交わす人間などいない。
もしいるとしたら、それはあまり思い出したくもない過去での関わり。
何となく嫌な感覚が風も無いのに胸の奥で、ざわざわと揺れ出すような気がした。

「私に…ですか?」
「はい、貴方に会いたくて来ました」
床に足をつき、真正面から男と向き合うと男は思ったより若く。記憶に無い人物のような気がした。
それなのにざわめきは大きくなり、必死で過去の襞の隙間を覗き、閉じ込めた何か探す自分がいる。
そして、探すな…と叫びながら喉が言葉を搾り出した。
「あの…私に用とは…」
「やはり判らないか…ほんと久しぶりだからね。でも貴方は少しも変わってない。元気そうだね…武人さん」


フラッシュバックというのは、本当に言葉のとおりだ…と、その時岩本は思った。
岩本の頭の中で、本人が望むと望まないに関わらず過去の記憶の一コマ一コマが鮮明に甦り。
そして、目の前の男と記憶の中の人物が重なるのに、時間はかからなかった。
「! まさか……」
「うん、そうだよ。思い出してくれた? 俺の事」
「…つ…つぐみ…」
「思い出してくれたんだ。ありがとう…武人さん」
「どっ、どうして此処に」
「どうしても、あなたに会いたかったから。でも、お互い仕事中だから、ゆっくり話も出来そうにないね。
だから、今夜もう一度来ても良いかな。駄目だって言わないよね…武人さん」
男は、幾分甘えるような声で言った。

「そ…それは…」
続く言葉をどう答えて良いか判らず返事をしかねている岩本に、男は触れたくない過去の断片を匂わせる言葉を口にした。
「あれ、駄目なの? まさか、他に会う約束をしている恋人がいる…なんて事は無い…よね。
だって武人さんは…大人には興味が無い…そうでしょう?」
男の甘えるような声と、にこやかに笑みを浮かべた口元。なのに、岩本を見つめる目は少しも笑ってはいなかった。

「な!何を言って」
「子供が…それも、男の子が好き。そうだったよね、確か」
本当に…風も無いのに轟々と唸る風の音にも似た男の声が耳に…と言うより頭の中に響き渡り。
眩暈を引き起こし意識まで巻き込もうとするそれを打ち払うかのように、岩本は首を振り…声を絞り出した。
「ち! 違う!!」
「そう? まぁ、そんな事はどうでも良いから…とにかく今夜もう一度来るからね。今度は逃げないでよ」
そう言うと、男は岩本の返事も聞く事もなく帰って行った。

そして、夜になって再び訪れた男は、岩本の前に立つと黙って岩本の手を取った。
男にしては柔らかく細い指が岩本の指に絡み、巻き付く。その指先から伝わるのは血の温もりも感じさせない冷たさに。
これは…悪夢へ誘う黒い天使の指…岩本はそう思いながらその手を拒むことも出来なかった。
男は岩本を外に止めてあった男の車へと誘い、優雅な動きで助手席のドアを開き岩本を椅子に座らせる。
それから、運転席に廻り…やはり無言のまま車を発進させた。

言葉を交わす事も無い車内は息苦しさだけが漂い、吐いた自分の息で窒息しそうになる。
それに耐えかねたように、少しだけ窓を開けると外の生ぬるい風が音を立てて車内に流れ込み。
その勢いで、車がかなりのスピードで走っているのだと判った。
一体何処へ行こうとしているのか。岩本は何か言おうと思いながら、隣に座っている男に目を向けた。

暗さに溶けた漆黒の髪。すれ違うライトに浮き上がる仄白い頬。その横顔を見ながら男が大人になった事を知る。
さりとて、何をどう言えば良いのか諮りかねて、岩本は半分開きかけた口を再び閉じると、男の横顔から窓の外に視線を移した。
川のように流れていた灯りが疎らになり、やがて極端に少なくなり、それを補うように暗さが増してくる。
そしてその闇の中から、思い出したくも無い、忘れたい、消してしまいたい過去が這い出てくる。
岩本はそんな気がして、ただひたすら闇の中に小さな明りだけを探し続けていた。

岩本武人の家は近隣でも名の通った素封家として知られていた。元々は農家だったのだろうが、
他人の土地を通らず隣駅まで行けるほどの土地を所有し、今は其処に貸ビルや賃貸マンションが立ち並ぶ。
要するに世間で言うところの土地成金だが、その土地を減らす事無く保持していると言うのは、
祖父に先見の明があったのだろう。そのおかげで、岩本は子供の頃から何の不自由も無く育った。

程々に質実に、そして程々に贅沢な生活。それなりの教育費を注ぎ込んでもらい、将来に不安も無いはずだったのだが…。
何をどう間違えたのか高校に入った頃から横道に逸れ出し、街でも評判の悪餓鬼とつるむようになった。
高校も休みが多くなり、予備校も止めてしまい、それまで上位だった成績は下降を辿る一方。
そんな状態でありながら退学になることも無く高校を卒業出来た…それが不思議な程だった。
当然大学になど進学できるはずも無く、岩本自身大学に…などという考えは頭になかった。

そしてその代り…ずっと思っていた。
なぜ、自分が逸れたのか…。
親から見て岩本は、それほど出来の良い息子では無かった。
兄が…優秀過ぎた…から。
そんな言い訳を。


車はかれこれ40分は走っているように思われ、いったい何処まで行くのだろう…岩本がそんな事を思っていると、
突然目の前に立派な門が現れた。そして車がその門の前で止まると、門は待っていたかのようにゆっくりと開いた。
車はその開いた門の中へと進み…大きな屋敷が見えるとその玄関前で男は車を完全に止めた。
そして車から降りた男は反対側へと周り、助手席のドアを開けると、また岩本の手を取り玄関ドアへと誘う。

屋敷の外観に見合ったポーチの太い柱と、大きな両開きのドアが来る者を威圧するように立ち塞がり。
それが男の華奢な手で音も無く開くのを見た時、岩本はまるで魔法でも見ているような気がした。
なんだ…この馬鹿でかい屋敷は。まさかこの家が男の家だというのか。
目にする現実は思考を鈍らせ、此処に至った状況も整理出来ないでいる岩本を、男は中へといざない。
勝手知った様子で、人の気配の無い屋敷の中を部屋まで導く。
そして、ただ立ち尽くしている岩本の胸にそっと頬を寄せ、腰に腕を回した。

「会いたかった。ずっと、それだけを願って生きてきたんだ」
大人になって、岩本に並ぶまでになった身長も、声も…大人の男なのに、掴んだ肩は思ったよりはるかに華奢で。
一瞬過去に引き戻されるのを感じた。それでもその肩を掴み、無理やりのように自分から引き離すと
目の前にある黒く潤んだ瞳を見つめ、小さく何度も首を振る。

「亜実…俺は…」
「大人になった僕には興味が無い…そう言うの?」 男の声が、頼りなく悲しげに聞こえた。
「違う! そういう事じゃなくて…」
「だったら…もう一度」
「だから、それは出来ない…もう、出来ないんだ」
岩本の苦しげに歪められた顔は、過去に引き戻そうとする男に必死に抗っているようにも見え、
男の黒い瞳が、ゆらりと揺らめくと一瞬で凍りついたように見えた。そして放たれた声が氷の刃を纏って岩本を切りつける。

「やはり、そういう事じゃないか。そうだよね、美味しそうな子供達がいつも目の前にいるんだからね。
ねぇ、今までに何人目をつけたの? そのうちの何人かは、頂いたのかな?」
「バカな! 俺はそんな事考えてもいない」

「そうかな…あぁいう嗜好が簡単に変わるとは思えないけどな。だって、いつも言っていたじゃないか。
僕の小さなペニスが精一杯立っているのが可愛いって。武人さんのものが全部納まらないアナルが可愛いって。
泣き叫ぶ僕の声が良い…苦痛に歪む僕の顔が良い。いつもそう言ったよね。それに…覚えている?
僕が始めて後ろだけで射精できた時…やっと一人前の雌になった。俺の女になった…そう言って喜んでくれたよね。
でも…僕を好きだと…愛していると…一度も言ってくれなかった」
男の声が、口調が、表情が…悲しげに、妖しげに、冷気をおびて、閉じ込めた岩本の過去を曝き始めた。


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